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                              ★… 【クリスマスを待つ横浜】 …★
                                    2010.12.20
夫の友人のご夫妻のお誘いで、12月20日(風もなく暖かい日でした)横浜中華街の忘年会に出かけました。約束の時間より少し早く横浜入りをして、”みなとみらい”に立ち寄りました。倉庫街はクリスマス本番の準備中、100%のイルミネーションではありませんが、幻想的な横浜を撮影してみました。2時間ほどみなとみらいから中華街までの散策です。
【キリスト生誕の人形から】
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【クリスマスマーケット 】満月の下で・・・。ヘリコプターも月に照らされて・・・。
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【サンタさんが屋根に・・】
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【沢山の食べ物屋さんが並んでいます】
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【ツリーを見つめるお月様】
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【赤レンガとても幻想的】
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【窓から漏れる室内の幸せ】
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【コスモワールドの観覧車も彼方に】
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【横浜みなとみらいクリスマスイルミネーション】
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【マリンタワーもお化粧して】
2006年末にいったん営業を終了したマリンタワーは、「マリンタワー再生事業」に基づき、横浜市が改修してよみがえりました。
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【青いお月様、氷川丸を優しく見てござる】
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【山下公園の噴水】
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【ウインドウもクリスマスの装い】
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【中華街に着きました】
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【暮れなずむ、みなとみらい】
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by hime-teru | 2010-12-25 20:28 | 横浜逍遥 | Trackback | Comments(2)

                           ★… 【浄土真宗大谷派の本山―西本願寺&東本願寺】 …★
浄土真宗本願寺派の本山西本願寺は徳川家康により東西に分断されてしまいましたが両寺院は共に浄土真宗のお寺です。
なお、浄土真宗の開祖・親鸞聖人をしのぶ宗派最大の法要が始まる4月に向けて建物の改築など準備中。親鸞の命日は1262年(弘長2)11月28日だが、同派では新暦の命日1月16日を最終日に法要がお勤まりになり、期間中、全国から10万人に近い門信徒が訪れる。4月からは両本願寺周辺は大変賑わい京都も活気づくことでありましょう。

【西本願寺】
※『西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で、親鸞聖人の廟堂(墓地)が京都東山に創建されたのが始まりで、各地に寺基を移転した後、1591年に七条堀川の地を豊臣秀吉より寄進され、1633年に、ほぼ今日に近い姿となりました。境内には阿弥陀堂・御影堂をはじめ、桃山文化を代表する建造物や庭園が今日まで大切に受け継がれており、1994(平成6)年UNESCO(ユネスコ:国際連合教育科学文化機関)により世界文化遺産に登録されました。
第3代覚如上人の時に本願寺となり、第8代蓮如上人の尽力により大教団に発展していきました。その後、寺地は大阪や和歌山を転々とした後、天正19年豊臣秀吉が寺地を寄進、現在地に移る』
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【逆さ銀杏】
根っこを天に広げたような形から「逆さ銀杏」とも呼ばれる樹齢約400年の大銀杏は、京都市の天然記念物に指定されています。本願寺に火災があった時、この銀杏から水が噴き出して消し止めたという伝説から、「水吹き銀杏」とも呼ばれています。
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【阿弥陀堂】
御影堂の北に位置し、単層、入母屋造、本瓦葺、高さ25m、東西42m、南北45m。御影堂とともに江戸時代の真宗伽藍の典型。内部には、本尊阿弥陀如来立像を安置する。現在の本堂は、江戸時代の宝暦10年(1760年)に12年の歳月をかけて再建されたものである。
豪華な桃山文化を伝える国宝・重文の伽藍が建ち並ぶ西本願寺。御影堂は平成大修復を終えました。
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西本願寺前の分離帯の紅葉
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1602年(慶長7)本願寺は東西に分立。
【東本願寺】
※『東本願寺は宗祖親鸞聖人の亡き後、聖人を慕う多くの人々によって聖人の墳墓の地に御真影を安置する廟堂が建てられました。これが東本願寺の始まりです。
池泉回遊式庭園の飛地境内地は1641年に三代将軍・徳川家光から約一万坪が寄進され、石川丈山の趣向を入れた作庭がなされました。』
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【渉成園】池泉回遊式庭園の飛地境内地は1641年に三代将軍・徳川家光から約一万坪が寄進され、石川丈山の趣向を入れた作庭がなされました。
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by hime-teru | 2010-12-25 19:52 | 旅の情景(京都) | Trackback | Comments(0)

                                 ★… 【【禅林寺】 別名 『永観堂』】 …★
                              2010,11月20日 紅葉状況
宿から10分ほど歩けば永観堂や南禅寺があります。朝食を済ませてゆっくり散歩しながら最高の紅葉を愛でてきました。体調もこの秋色を心の中に吸収して元気を貰いました。
【禅林寺】(通称)一般には『永観堂』の名で知られる。浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。
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【紅葉の永観堂】
別名「もみじの永観堂」と呼ばれるほど秋の紅葉は有名です。京都・東山随一の紅葉名所です。境内には約3000本の楓(カエデ・イロハモミジ、ヤマモミジ)が植えられている。
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「古今集・秋下」に藤原関雄の〓「おく山の 岩がき紅葉散りぬべし 照る日の光 見る時なくて」
平安時代初期に、永観堂(禅林寺)を創建され、弘法大師の弟子真紹僧都(しんじょう 797-873)の徳を慕って自分の別荘を寄進した藤原関雄の詠んだ歌です。永観堂は仁寿三年(853)の草創以来今日まで、幾多の文化人達の筆や口にもてはやされ、親しまれて、“モミジの永観堂”として千百有余年のかがやかしい歴史を持った京都有数の古刹です。
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永観堂の歴史は大きく三つの時代に分けられます。最初は真紹僧都から永観律師が住職になるまでの約220年間は真言密教の寺院としての時代。永観律師から静遍僧都までの約140年間は真言密教と奈良で盛んだった三論宗系の浄土教寺院でした。その後は浄土宗の寺院となりました。
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写真撮影は出来ませんでしたが、永観堂の本尊は『みかえり阿弥陀如来』像は高さ約80cm、作られたのは鎌倉初期頃のようである。京都六阿弥陀仏のひとつに数えられる名作。優美な曲線と後ろ左肩越しに振り向く姿をとっており、世界でも珍しく、立ち止まり振り返る姿です。仏が立ち止まり、振り返り、待つという「見返る」姿は、現代人に深い慈悲の働きを示しています。

境内には地形の高低差を生かして多くの建物が建ち、それらの間は渡り廊下でつながれています。
御影堂 釈迦堂 瑞紫殿と廊下やを通り見学できます。
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【瑞紫殿】
火除けの阿弥陀如来を安置している。応仁の乱のときに他の佛像は焼けてしまったが、この像だけは奇跡的に残ったため、「火除けの阿弥陀」として尊ばれた。
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御影堂の廊下からの紅葉
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【多宝塔】
境内の最も高い位置にあり景観上重要な位置を占めている。1928年(昭和3年)、篤志家の寄付で建設された。
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五重塔のように屋根に伸びる心柱に九輪と水煙が付いていて珍しいものです。
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左〓【臥龍廊】↓
上は臥龍廊とは屋根の反りが龍の背中に似ていることから名付けられた。この臥龍廊の下に「三鈷(さんこ)の松」呼ばれる大きな松の木がある。葉先が3つに分かれており、この松の葉を持っていると、「智慧」「慈悲」「まごころ」の3つの福を授かるといわれる。上り詰めると『開山堂』
〓右【水琴窟】↓
御影堂裏の阿弥陀堂と臥龍廊に別れる回廊の山裾、みかえり阿弥陀さまにご参拝の折に静かに水を注いで水滴が奏でる
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【唐門】
天皇の使いが出入りする勅使門で、釈迦堂との間に盛砂が作られており、勅使は、この盛砂を踏んで身を清めてから中に入った
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by hime-teru | 2010-12-25 19:50 | 旅の情景(京都) | Trackback | Comments(0)

                          ★… 【 百済寺(ひゃくさいじ) 】 …★
                                  2010.11.19
滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。山号を釈迦山と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は聖徳太子とされる。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる。百済寺の史料上の初見は11世紀の寛治3年(1089年)であり、聖徳太子創建との伝承がどこまで史実を反映したものかは不明であるが、百済寺という寺号から見て、この寺は渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。平安時代には、近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺院となっている。
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平安時代から中世にかけて、かなりの規模をもった寺院だったようだが、明応7年(1498年)の火災で全焼し、その数年後の文亀3年(1503年)の兵火でも焼け、この2回の火災で創建以来の建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼けてしまった。さらに天正元年(1573年)には織田信長の焼き討ちに遭い、またも全焼している。当時、この地に勢力をもっていた佐々木氏の一族六角氏は、観音寺城の支城である鯰江城(なまずえじょう)を百済寺の近くに築いていた。信長は自分と敵対していた佐々木氏に味方するものとして、百済寺を焼き討ちした。本堂をはじめ現在の建物は近世以降の再興である。
【本堂】
本堂は、入母屋造、檜皮(ひわだ)葺き。江戸時代初期、慶安3年(1650年)の再興である。中世以来の密教仏堂の形式を残しつつ細部には近世的特質の現われた建築で、2004年に重要文化財に指定されている。現在の本堂は、一重、五間六間、入母屋造で正面中央に軒唐破風が付せられております。
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【仁王門 (におうもん)】
長い参道の本堂近くに立つ仁王門は、本堂と同じ年代に建立されました。三間二間で一対の金剛力士像が向きあっております。
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【表参道 (おもてさんどう)】
三山の中で百済寺の参道は、入口にあたる山門(赤門)から本堂までの長さが最も長い。その参道の両側には老杉が林立し、支院跡の名残を残す苔むした石垣が続き、歴史の深さを感じさせられます。
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【天下遠望の名園】
西方の借景は琵琶湖をかすめて、55km先の比叡山で、広大なパノラマ展望を望めます。さらに西方、880km先には、往時の「百済国」がありました。
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百済からの渡来人が母国を偲ぶ気持ちで「遠望台」に立つ時、両国の深い交流関係が蘇ってきます。
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by hime-teru | 2010-12-25 19:48 | 旅の情景(京都) | Trackback | Comments(0)

                              ★… 【京都旅行編―湖東三山 .金剛輪寺】 …★
                                          2010,11,19
【金剛輪寺】
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大悲閣本堂は(国宝)です。琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、奈良時代の僧・行基の開創と伝える。本堂内の不動明王立像十躰はいずれも木像、鎌倉初期で重要文化財、間近に拝むことができて見事なものです。
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弘安11年(1288)1月建立の銘が須弥壇にあり鎌倉時代の代表的な和様建造物として国宝に指定されており、東京オリンピックには世界に誇れる日本の建造物の一つとして文部省が十分の一の精巧な模型をつくり上野の博物館に展示されました。言わば「オリンピック選手」であります。
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奈良時代の中頃、天平13年(741)に聖武天皇の勅願で行基菩薩によって開山されました。秘仏本尊聖観世音菩薩は、言い伝えによりますと行基菩薩が一刀三礼で彫り進められたところ木肌から一筋の生血が流れ落ちたため、観音様に魂が宿った証として、粗彫りのまま本尊としてお祀りされました。
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後の世に「生身(なまみ)の観音」と呼ばれるようになり、全国十方の観音信徒より篤い信仰を集めています。
平安時代の初めには、比叡山より慈覚大師が来山、天台密教の道場とされて以来、延暦寺の末寺、天台宗の大寺院となりました。
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元寇の役の戦勝記念として、時の近江守護職・佐々木頼綱によって建立された現在の本堂は、鎌倉時代の代表的な和様建造物として国宝に指定されています。堂内には御本尊をはじめ、阿弥陀如来坐像、十一面観音立像など平安から鎌倉時代の仏像が安置され、その多くが重要文化財に指定されています。
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【三重塔】
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鎌倉時代および二天門(室町時代)も国指定重要文化財で、桃山時代から江戸時代の中期にかけて造られた庭園は近江路随一といわれ、国の名勝にも指定されています。
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【二天門 】室町時代/重要文化財
本堂よりおくれて室町時代中頃に建立、八脚門ともいわれるように当初は楼門でありましたが江戸時代中頃に二階部分を取り壊し、現在の一重にしたと伝えられています。
【血染めの紅葉】
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【境内】
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【冬桜】紅葉と競演
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【池泉回遊式庭園】
桃山、江戸初期、中期の三庭からなり、作者不詳でありますが、老杉蒼松の自然を背景とし、灯籠泉石樹木の配置等、素晴らしく、江戸初期庭山腹には仲むつまじい夫婦松がそびえ、境内のもみじは「血染めのもみじ」と広く知られております。
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観音様のやさしいお心が満ち、湖東三山一の名園古庭であり、国の名勝にも指定されております。
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【茶室】
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【池】紅葉に染まります
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【千体地蔵】
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by hime-teru | 2010-12-25 19:47 | 旅の情景(京都) | Trackback | Comments(0)

                          ★… 【京都旅行編―湖東三山.西明寺】 …★
                              2010,11月19日(金)紅葉状況
【西明寺…(さいみょうじ)】
滋賀県犬上郡甲良町にある天台宗の仏教寺院。山号を龍応山(りゅうおうざん)と称する。本尊は薬師如来、開基は三修上人である。金剛輪寺、百済寺とともに「湖東三山」の1つに数えられる。
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西明寺も平安時代から中世へかけての歴史は必ずしも明らかではないようですが、 現存する本堂、三重塔は鎌倉時代の本格的な建築であり、この頃にはかなりの規模を有していたものと思われる。 元亀2年(1571年)、比叡山延暦寺の焼き討ちを行った織田信長は、近江国にある比叡山傘下の天台寺院をも焼き払うことを命じ、西明寺も信長配下の武士によって焼き討ちの運命にあった。しかし、寺僧の機知により、山門近くの房舎を激しく燃やし、全山焼失のように見せかけたため、山奥に位置する本堂や三重塔は焼失をまぬがれたという。この兵火の後は荒廃していたが、徳川家などの庇護を受けて徐々に復興し、近代に至っている。
【二天門(重要文化財)】
室町時代の建築。二天(持国夫、増長天)は院尋策である。表道両側石垣は、穴太積の初期の石垣が保存されている。
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【本堂(国宝)】
入母屋造、檜皮葺き。鎌倉時代前期の和様建築。中世天台仏堂の代表作として国宝に指定されている。内陣中央の厨子には本尊薬師如来立像(重要文化財、秘仏)を安置し、左右に日光・月光(がっこう)菩薩像、十二神将像、二天王像(重要文化財)などを安置する。
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【三重塔(国宝)】
本堂の右(南)に建つ。檜皮葺きの和様の三重塔である。様式的に鎌倉時代中期~後期の建築とされる。初層内部には大日如来像を安置し、内部の柱や壁面には極彩色で仏・菩薩、牡丹、鳳凰などが描かれている。壁画の主題は、4本の柱には両界曼荼羅のうち金剛界曼荼羅成身会(じょうじんね)の三十二菩薩を表し、壁面には計8面に法華経二十八品(章)の説話を表している。これらは国宝建造物の一部であるとともに、「絵画」として別途重要文化財に指定されている。
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【西明寺本坊庭園】
泉観賞式の庭園で、鶴亀の「蓬莱庭」と名付けられている。鶴や亀を形どった石組みや、本堂に祀る仏像を立石群に象徴させ、山の傾斜などを巧みに生かした、調和がとれた庭園である。
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【山門 参道 】
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【二天門】本堂から見た二天門
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【夫婦杉】ナイスショット
千年の長寿の木である。 幹が途中で二又に分かれていることから夫婦杉と呼ばれる。
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【表参道】この参道は平安時代初期に設けられた参道を鎌倉時代に現在のように拡げられ、江戸初期更に整備されて現在に至っている。塀の内側は本坊である。
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【不断桜】
県の天然記念物、250年の古木である。例年9月上旬に咲き始め、11月には満開となり、紅葉の時期に季節はずれの花見を楽しむことができる。山桜か彼岸桜の一種である。
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by hime-teru | 2010-12-25 19:45 | 旅の情景(京都) | Trackback | Comments(0)

【湖東・永源寺】

                                ★… 【永源寺】 …★
                                 2010,11月19日(金) 紅葉状況
【臨済宗永源寺派の総本山】
境内全体見ごろでした。紅葉の美しさとコンニャクで知られる永源寺は、鎌倉時代、寂室元光和尚が伽藍を建立したのが始まりといわれています。寂室の死後も永源寺には高僧が集まり、佐々木氏の庇護のもと盛時には2000人もの学僧が集まっておおいに栄えました。その後、兵乱で一時衰えたが、江戸時代に東福門院により再建され、さらに彦根藩主井伊氏の庇護によって諸堂が整えられました。
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石段の表道を登ると、右手に愛知川があり、左手の雷渓山の岸壁には十六羅漢の石仏が点在します。
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渓谷の両岸をはじめ、参道一帯にはモミジ・カエデが多く、秋の紅葉期には多くの観光客で賑わいます。
【紅葉-1】
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【方丈】
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【仏殿】
開山堂などが立ち並び 本尊の聖観音像は秘仏で、俗に「世継ぎ観音」と呼ばれています。また、永源寺はこんにゃく料理でも有名で、開山堂の近くに「こんにゃくのさしみもすこし梅の花 はせを」の句碑も立っています。 南北町時代の康安元年(1361)、近江国の領守佐々木氏頼が、この地に伽藍を建て、寂室元光禅師を迎えて開山され、瑞石山永源寺と号しました。
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禅師が遷化された後の、応安2年(1369)後光厳天皇は禅師を追崇され円応禅師の諡号をおくられ、さらに昭和3年(1928)4月には正燈国師の称号がおくられている。応仁の乱には、京都五山の名僧がこの地に難を避け修行し"文教の地近江に移る"といわれるほど隆盛をきわめたところです。
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明応(1492)永禄(1563)とたび重なる兵火にかかり、本山をはじめ、山上の寺院悉く焼失。寛永年間一 絲文守禅師(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇の帰依を受け再興された。明治以来、臨済宗永源寺派の本山となり、百数十の末寺を統轄し、坐禅研讃、天下泰平、万民安穏を祈る道場となっている
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【総門】
永源寺境内に入って最初にくぐる門。康安元年(1361)佐々木氏頼によって創建されたが、明徳元年(1390)兵火にかかり焼失。以後寛正5年(1464)に第16代虚白文玄禅師が再建。寺内の建造物では最も古い。四脚門の形式で、門の両側に土塀をつけた風格のある総門である。
【山門】(文化財指定)
総門の次にくぐる山門は、寛政7年(1795)123代丹崖禅師が彦根城主井伊家に図り建立に着手。7年の歳月をかけ享和2年(1802)霊隠禅師のとき完成した。楼上には釈迦三尊と十六羅漢がまつられている。

【本堂】
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安心寺と号し、佐々木氏頼によって創建。しかし、たび重なる兵火、火災によって焼失の難にあった。現在の建物は、明和2年(1765)第112代拙堂禅師の時、井伊家の援助により建立されたもので屋根は葭(よし)葺きである。正面には本尊世継観世音菩薩、脇壇に一絲国師の尊像、歴代住持の位牌、井伊家及び檀信徒の位牌が奉安されている。本堂隣の庫裡も兵火にあい、明和元年(1776)第117代怡山全育禅師の時に再建された 。庫裡は昭和54年(1979)雄峰禅師のとき改築された。 後に永源寺派として独立し、坐禅研鑽、天下泰平、万民和楽を祈る道場として、全国百有余の末寺を統轄する一派大本山となり、今に至っています。
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【鐘楼】
文明2年(1470)虚白文玄禅師住山の時、祖宗道人より大鐘 が喜捨されたが、再三の兵火により焼失した。安永元年(1772)第116代実道禅師が造営されたが、大鐘は、第2次大戦に供出し、昭和25年(1950)第141代 鳳禅師によって再鋳された。

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金剛輪寺、西明寺、百済寺(ひゃくさいじ)とともに湖東三山
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by hime-teru | 2010-12-23 21:30 | 旅の情景(京都) | Trackback | Comments(0)

                       ★… 【 京都旅行編 (奈良・談山神社) 】 -(2) 境内の紅葉 …★
                                     2010.11.18
【談山神社】 (重要文化財 )
【紅葉燃ゆ】
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紅葉と競演の赤い傘
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十三重塔は唐の清涼山宝池院の塔 を模して建てられたと伝えられています。高さは約17メー トルあり、屋根は伝統的な檜皮葺きです。神仏混淆時代の名残であると同時に、談山神社のシンボル的な存在です。茶店が花を添えています。
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【境内の紅葉の数々】
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【御利益がありますように】
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遠景ホテルの展望台より
藤原鎌足公をお祀りする本殿は、もと聖霊院、大織冠社、多武峰社とも称し、 三間社隅木入春日造のけんらん豪華な様式で知られています。社殿全体は極彩色 模様や、花鳥などの彫刻によって装飾されているようです。 大宝元年(701)の創建 で、現存は嘉永3年(1850)に建て替えられたものです。日光東照宮造営の際のお手本となったことでも有名です。雲が・・・。太陽が雲の中。
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真下の鳥居のあたりは紅葉は2.3日程先のようでした。
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談山神社の正面にある多武峰観光ホテルの5階レストランにて昼食
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【境内の紅葉・・・(おまけ)】
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by hime-teru | 2010-12-23 21:20 | Trackback | Comments(0)

                         ★… 【 京都旅行編 (奈良・談山神社) 】 -(1) …★
                                     2010.11.18
近鉄京都駅から急行に乗車、八木駅乗り換え、桜井駅南口より丁度、談山神社行のバスがあり30分ほどで神社に着きました。バス運賃460円なり。
【十三重塔】 〓 〔室町時代・重要文化財
鎌足公の没後、長男・定慧は留学中の唐より帰国、父・藤原鎌足の追福のために、次男・不比等と共に西暦678年に、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。
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現存の塔は、享禄5年 (1532)の再建で、木造十三重塔としては、世界唯一のものです。紅葉に映えて美しい塔でした。
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【談山神社(たんざんじんじゃ)】
舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていた時代、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。
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たまたま、飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)の蹴鞠会にて、聡明な皇太子、中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。
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【本殿の後ろの山が談い山】
本殿・・・平成22年10月~平成24年春(この間足場が組まれて本殿の一部が観覧できませんでした)
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鎌足公は真の日本国を発想し日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。後に鎌足公大病されたことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。藤原の姓はここに始まります。
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by hime-teru | 2010-12-17 23:37 | 旅の情景(京都) | Trackback | Comments(0)

                            ★… 【京都御所 秋の一般公開 】-(4) 京都御苑 …★
                                       2010.11.17
【京都大宮御所】
現在は天皇、皇后、皇太子及び皇太子妃の京都府への行幸啓(旅行)の際の宿泊や国賓の宿泊に使用されている。隣に仙洞御所があります。退位した天皇(上皇・法皇)の御所。仙洞とは本来仙人の住み処をいい「せんどう」とも読まれる。仙洞御所の地は、かつては聚楽第の後身として豊臣家の本邸のあった。当時は京都新城(旧聚楽第に対して)と呼ばれていた。豊臣秀頼は大坂城に常時居住していたが、京都新城には豊臣秀吉の正室・高台院(北政所)が居住していたところです。
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【京都御苑】
明治天皇とともに公家らが明治2年(1869年)東京へ移られた後、公家屋敷などが広がって公家町を形成していた京都御所周辺は大量の空き家の町となり荒廃した。この状況を嘆いた天皇は、明治10年(1877年)御所の保存を命じた。これを受け、京都府が火災延焼を防ぐため御所周辺の空き家となった公家屋敷を撤去して整備したのが京都御苑の始まりである。昭和24年(1949年)には国民公園として広く開放された。
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多くの木々が生い茂る公園内には、京都御所、仙洞御所、京都大宮御所、宮内庁京都事務所、皇宮警察本部京都護衛署などの宮内庁・皇宮警察関連の施設をはじめ、公家屋敷の遺構、公園の管理を行う環境省京都御苑管理事務所のほか、グラウンドやテニスコートもあり、市民の憩いの場になっている。
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【枝垂れ桜も秋の装い】 御所内の桜です
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【御所の細道】
一般住民の通り抜けルートになっているが、通路部分は小砂利が敷き詰められているため自転車では走りづらいが・・・。何故か自転車の走行跡が砂地に出来る。整地しても自転車の轍はいつも同じ所に出来るとか?まか不思議?。この走行跡は御所の細道と呼ばれるようです。
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【京都の鬼門、御所の鬼門】
鬼が出入りするとかで、嫌われる鬼門ですが、京都の民家、社寺では鬼門除けの風習が残っています。写真は京都御所の猿ケ辻と呼ばれるところで、角が内側に切り取られたようになっています。御所の鬼門となる東北角になります。御幣を担いだ猿を金網に閉じこめて魔除けとしています。(維新の頃には姉小路公知の暗殺現場でもあり、丁度切り込みの陰から刺客が飛び出し、公知を暗殺した所のようです) 犯人は分からずじまいですが、この鬼門の猿が唯一の証人?。門には赤外線のセンサーが取り付けてあり溝を渡れば警告放送が流れます。
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【大きな椋の木が・・・・】歴史を見つめています
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by hime-teru | 2010-12-15 23:38 | 旅の情景(京都) | Trackback | Comments(2)