2019年 02月 16日
【世界らん展 2019】花と緑の祭典
2019.02.16 東京ドームにて
今年も、友人から頂いた招待券で今年も「世界らん展」に行ってきました。
いつもご一緒のS様ご夫妻(入院されて)ご一緒出来なかったことは、とても寂しい事でした。
ご回復を心より願いながら・・・出掛けてきました。早く元気になってくださいね。
◆会場(東京ドーム)

◆オーキッド・ゲート
胡蝶蘭、カトレア・リカステと「溢れる蘭」花と緑の祭典の入り口です

◆日本大賞


◎以下、写真は整理中にて暫くお待ち下さいませ。近日中にアップ致します。
◆トロフィー賞
◆シンボルモニュメントの「そらの木」
。階段を登ると、より身近にツリーの息吹きを感じることができ ると共に、会場内を一望することができる圧巻の光景が広がります
◆食中植物と神秘的な花々
ネぺンテス属(ウツボカズラ)や亜熱帯地方で咲く世界最長の花弁を持つ花とし
てギネス記録に認定されている蘭「パフィオペディラム属サンデリアナム」など
不思議な進化を遂げた植物の数々。
◆「光るシクラメン」「トレニア」
◆盆栽
◆日本の生け花「三大流派」
◆ディスプレィ部門
◆アーティストの世界
2019年 02月 09日
【今年の積雪】
2019,02.09我が家にて
昨年は大雪に見舞われましたが、今年は雪も少なく、2月9日(土)に、低気圧や強い寒気の影響で、関東地方の広い範囲で雪が降りましたが、埼玉は1㌢程うっすらとお化粧いたしました。夕方には溶けてしまいました。”春の淡雪のごとし” 凍結に備えて車庫や玄関にまく「解氷くん」を準備していたのですが・・・?おかげさま。使わずに春が来る。嬉しくもあり、寂しくもあり。

2019年 01月 07日
【浅草名所七福神】
2019、01、05
お天気に恵まれ、今年も七福神巡りを致しました。今年は浅草名所七福神巡りです。
浅草名所七福神は九社寺あります。「九は数のきわみ、一は変じて七、七変じて九と為す。九は鳩でありあつまる意味をもち、また、天地の至数、易では陽を表す」という古事に由来したことによります。江戸末期には、商売繁盛、無病息災、各種大願成就の福徳、福運を求めて各地で七福神詣でが隆盛を極め、とくに正月松の内に巡拝して一年の福徳を願うようになったものが今日の七福神詣での形となったとのことです。
浅草名所七福神詣では、江戸市中でも有名だったのですが、戦後一時期中断のやむなきに至り、昭和五十二年に復活して今日 に受け継がれているものです。古くから江戸市民に霊験あらたかな福の神として親しまれてきています。


【大黒天】
大黒天は浅草の観音様をまつる「浅草寺」に鎮座しています。米びつ大黒として江戸以来市民の崇敬を集めています。古代インドにおけるマハーカーラ神のことで、悪魔退散の強力な守護神であります。仏教の日本への伝播とともに一方では魔を払う軍神、また他方では食料を司る台所の神として崇められるようになりました。
このように、古くは福神と軍神の二面性を有していたのですが、室町時代になって「大黒(だいこく)」と「大国(だいこく)」の音読みが同じことから次第に日本の伝統神に数えられる大国主命(おおくにぬしのみこと)になぞられるようになりました。信仰が大衆化されるにしたがって、旧来の台所の守護神に大国主命の神徳が加わって、糧食、財宝の神として広くまつられ、いつしか軍神の性格は弱まり、福徳の神として今日にいたっているのでございます。撮影禁止でした。

【浅草寺】

推古天皇36(628)年3月18日未明のことでした。今の隅田川に投網漁をしていた漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟の網に一体の仏像がかかりました。それを豪族の土師真中知(はじのまなかち)は、尊い観音像であることを知り、深く帰依して自宅を寺とし、その観音像を奉安し、礼拝供養に勤めました。これが浅草寺のはじまりです。



【二天門】

冬桜が咲いていました

★【浅草神社】

恵比須神をお祀りしています。御扉の奥に安置されており、実際に見る事はできません。
【恵比須神】
恵比須神は、七福神の中で唯一日本生まれの神様です。日本人の素朴な生業信仰のなかで海からの恵み、つまり大漁をもたらしてくれる福神として、古くから招福、開運を祈願する人々の尊信を集めています。
★【待乳山聖天】

十一面観音菩薩の化身ご本尊の大聖歓喜天は仏法を守護する大本の神様として、ことに庶民の迷いを救い、願いをかなえてくださる広大な包容力をもっています。当山の紋章には巾着と二股大根が組み合わされており、巾着は砂金袋のことで商売繁盛を、二股大根は無病息災、夫婦和合、子孫繁栄をそれぞれ意味し、大聖歓喜天の福徳を示しています。


【毘沙門天】
待乳山聖天に祀られている毘沙門天は大聖歓喜天の守り神として古くから奉安されており、当山の浴油祈祷という厳しい修行にふさわしい凛とした木彫像です。撮影は出来ませんでした。
『毘沙門天は古代インドのバイシュラバナのことです。常に仏の道場を守り、説法を良く聞いたといういわれから「多聞天」とも呼ばれています。身体には黄色の甲冑をつけ、左手に宝塔、右手に鉾または宝棒を持ち、憤怒の形相で邪気を踏みつけにしている姿が普通です。 左手の宝塔は福をもたらす徳、右手の鉾は邪を払い魔を降す徳を示すところから、財宝をもたらし心に勇気と決断を与えてくれるという物心ともどもの福徳を施す神です。

★【今戸神社】
後冷泉天皇康平6(1063)年、時の奥羽鎮守府将軍伊豫守源頼義・義家父子が、勅命によって奥州の夷賊阿部貞任(あべのさだとう)・宗任(むねとう)の討伐の折、篤く祈願し鎌倉の鶴ヶ丘と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが今戸八幡(現在の今戸神社)の創建になります。

招き猫発祥のお寺だそうです。本堂には干支のイノシシと招き猫、そして見張り番の白ねこ様

変わり絵馬は丸くて可愛らしい

今戸神社に祀られる福禄寿は、白髪童顔の温和な容姿で、福の神として人々の尊信を集めています。

【福禄寿】
白髪童顔の温和な容姿で、年齢は数千年といわれ、福(幸福)と禄(生活・経済の安定)と寿(健康にして長命)との三つの福徳を授ける福の神として人々の尊信を集めています。
★【不動院(橋場不動尊)】
ご本尊の不動明王は、良弁僧正が相州大山寺で修法(しゅほう・国家または個人のために加持祈祷をする法式)しながら刻んだ一木三体不動のうちの一体で、開運厄除け不動の秘仏となっていて拝観することはできませんが、お前立のご本尊として不動明王(鎌倉時代の作)は、あたりを圧する偉容で世の中の災厄を払っており、江戸市民から久しく尊信されてきました。


不動院の 布袋尊 は江戸時代のころから伝わるもので、肩に袋がなく、お腹が袋代わりの形をしている珍しいものです。大きな度量、清く正しい行為の福を授けてくれる布袋様そのものといったお姿で、古くから江戸庶民に尊信されています。

【布袋尊】は中国の後梁(10世紀初期)の中国に実在した禅僧で、名を契此(かいし)といいました。 常に笑みをたたえて容貌福々しく、体躯肥大、粗衣をまとった姿は物事にこだわらない人格の大きさを感じさせます。 いつも布袋を肩に喜捨を求めて諸国を遊行し、童子と戯れ邪気、憂慮はいささかもなく、豪雪の中に寝てもその体は濡れる事も無く、ときに晴雨や吉兆を予知して人々の尊崇の念を集めたといわれています。 後梁貞明3(917)年に寂滅するや、世人は弥勒菩薩の化身であったと信じ尊び、画幅にして信仰したといいます
★【石浜神社】
石浜神社は、聖武天皇神亀元(724)年9月、勅願によって当地に鎮守され、源頼朝が藤原泰衡征討の折、当社に祈願して「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」と詠み、大勝の目的を果たしたので後日、社殿を造営寄進し、神恩に報いました。
白ひげ西地区再開発事業により昭和63年9月に現在地に遷座しました。

境内には真先稲荷、招来(おいで)稲荷、江戸、北野、妙義八幡、粟島水神、大工祖神あらかの摂末社、それに富士遥拝所があり、亀田鵬斎の隅田川詩碑、「伊勢物語」の都鳥の碑などもあり、また石浜鳥居は独特なものです。

石浜神社の寿老神像


★【鷲神社】
酉の祭、酉の市で知られる鷲神社は江戸下町を代表する神社で、開運、商売繁昌、家運隆昌、子育て、出世の神徳が深いとされ、「おとりさま」と称されて古くから江戸下町の民衆に篤く尊信されてきました。ご祭神のもう一柱である日本武尊(やまとたけるのみこと)は後に東征の帰途、当社の松に熊手をかけて勝ち戦のお礼参りをされた日が、ちょうど11月の酉の日であったことからその日に神様をおなぐさめする祭が行われるようになり、それが酉の市のはじまりなのです。



とにかく鷲神社の例祭(酉の市)は大変な人気で、酉の日の午前零時を期に打ち鳴らされる太鼓の合図とともにはじまる祭は、その日一日、江戸っ子の人いきれが境内にあふれます。


鷲神社は寿老人をお祀りしています。撮影ならず
【寿老人】
中国に古くから伝わる道教の祖、老子が仙格化されたものといわれるこの神は南極星の化身ともいわれ、白髪長頭で長寿の福徳を記した巻物をつけた杖を持つ姿が描かれます。また、齢二千年の玄鹿をはべらせているときもあります。
境内には酉の市を愛した文人の碑がありました。

★【吉原神社】
ご祭神は、稲荷神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と弁天様である市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)で、開運、商売繁昌、技芸上達などのご神徳です。

吉原神社の歴史は新吉原遊郭のそれと折り重なり、廓の鎮守の神として古くから崇敬されてきました。

【吉原弁材天本宮境内】

【弁財天】 市杵嶋姫命(弁財天)は、遊郭の土地造成でできた弁天池に祀られ、関東大震災の後に遊郭の守護神に加えられました。そのお顔は童女のような清純さと優しく美しい面立ちの座像で、女性の愛と苦しみを清めて包み込む救いのお姿です。

七福神の中でただ一人女性である弁財天は、古代インドのサラスパティという名の豊かな川の女神で、知恵、技芸、財物の福徳を有すると言われています。とくに悪声を川のせせらぎのような美声に変える神徳があると信じられ、別名を「妙音天」とも言われます。
『関東大震災の殉難者を慰霊する観音像』
「殃死おうしとは、横死とも表記され、事故・殺害・災禍など思いがけない災難で死亡することを意味する。本発表. で取り上げる『関東震災殃死者名簿』には、関東大震災による殃死者約10万5,000人のうち、過半数に相当する. 約5万4,700人分の氏名が記載されています」

★【矢先神社】
寛永19(1642)年11月23日、時の三代将軍徳川家光公が国家の安泰と市民の安全祈願ならびに武道の練成のために、江戸浅草のこの地に三十三間堂を建立しました。
ご祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと) を祀りります。ご神体は上野東叡山寛永寺の祖慈眼(じげん)大師(天海大僧正)によって寄進され、「御府内寺社備考」によると「木造で翁の型をして稲を荷い、7寸8分、弘法大師作」となっています。

創建以来、創業、学業、人徳の成就と武運長久の神徳に、武士、町人を問わずに尊信を篤くしました。関東大震災、東京大空襲などで幾多の困難に遭いましたが、いずれも難をくぐりぬけて現在に至っています。
矢先神社のご神像は拝殿右手に奉安されています。長寿の象徴の鶴をはべらせ、白髪白髯、調和のとれた円満な福相をされており、人の最高理想の姿をあらわしています。
【福禄寿】
福禄寿は白髪童顔の温和な容姿で、年齢は数千年といわれ、福(幸福)と禄(生活・経済の安定)と寿(健康にして長命)との三つの福徳を授ける福の神として人々の尊信を集めています。

☆拝殿の格天井には、神武天皇の御世から今日にいたる「日本馬乗史」を描いた100枚の絵が奉納されています。人物、馬の姿態、武具、服装などすべてが精密な考証のもとに描き上げられていて、馬にまつわる歴史が一目瞭然に理解できる貴重なものであります。


浅草は江戸文化発祥の地と言われても過言ではありません。七福神巡りの流行したのはその江戸時代からと伝えられております。仏教で信仰された毘沙門天・大黒天・弁財天、支那の儒教で尊ばれた福禄寿 ・寿老人・布袋尊、日本の神として尊ばれた恵比須神、が福徳円満の神として、 年の初めに一年の家内安全、息災延命を希って巡拝されました。
【私の歩行財産】この他、地元七福神、等など・・・健康と好奇心と穏やかな時間を楽しみました.

2018年 12月 31日
ごあいさつ
2018年 12月 11日
【東京ミッドタウン日比谷】
2018,11,26 日比谷にて
【東京ミッドタウン日比谷】
2018年3月29日に開業。地上35階建て(高さ約192メートル)、地下4階、延べ床面積は約18万9000平方メートル。賃貸オフィス(34階〜9階)や、大企業とベンチャー企業の連携を促すインキュベーション施設に加えて、商業施設部分(地上7階〜地下1階)に全60店のテナントが入る。
三井不動産はビジネスだけでなく、゛日比谷地区"の文化的価値を高める拠点とする意向を表明している。
野外には日比谷の賑わいの中心となる日比谷ステップ広場、4〜5階に映画館「TOHOシネマズ日比谷」、6階には日比谷公園を一望するパークビューガーデン、9階にはオフィスロビーがある。
【2016年工事中のビルの様子】取り置き写真です。




当時の日比谷有楽町(新幹線)

【ミッドタウン日比谷】


【日比谷ステップ広場】

【花園】「パークビューガーデン」6F
ビルの間に新幹線通る

下を覗けば。

4~5Fは映画館

5Fの窓から皇居一望


【6Fガーデンテラスから眺める皇居と都心の風景】

[法曹会館]昭和11年(1936)竣工しました。お堀端という場所にふさわしい静謐な趣を生み出すよう配慮された倶楽部建築。尖塔屋根のある塔屋や正面にはめ込まれたステンドグラス、瀟洒な車寄などが特徴です。


【都会の蜃気楼モドキの美しい風景】
陽光が西に傾きかけた夕暮れ、単なる眺望ではなくてガードの「借景」東京ミッドタウン日比谷の300坪もの広さを有する空中庭園"空中庭園"にガーデンテラス,透明なアクリル板(囲い塀)の映り込みと皇居、丸の内のビル街がコラボして、幻想的な蜃気楼もどきの景色が撮影できます。心が癒させる写真に仕上がりました。





夕景のお時間3時過ぎに是非訪ねてみてください。ファンタスティクな絵のような光景ですね。
種明かしはこのアクリル板

昼と夕景

日比谷公園から、そびえています。

★【皇居1周写真もアップいたしました。ご覧ください】
2018年 12月 06日
【信任状捧呈式の馬車列】の見学
2018年11月14日(東京駅・皇居)
◆信任状捧呈式の馬車列の運行予定について
新任の外国の特命全権大使が信任状を天皇陛下に捧呈する儀式です。外務大臣または他の国務大臣が侍立することとされています。なお、大使一行の皇居への送迎に際しては大使の希望により、皇室用の自動車か馬車が提供されています。
★平成30年11月14日(水) 午前10時05分、今日は「アイルランド」と「フインランド」からの大使(外交官)だそうです。
◆(1回目のお迎えの馬車が東京駅に着きました)

【コース】
馬車は、東京駅→行幸通り・和田倉門交差点(直進)→皇居外苑→皇居正門→宮殿南車寄に向かいます。このとき大使の随行員が乗る馬車と警護の皇宮警察及び警視庁の騎馬隊を加えた馬車列で編成されます。
『日本の信任状捧呈式では、新たに赴任した国の大使(外交官)は東京駅から宮殿南車寄までの移動手段として自動車か儀装馬車を選ぶことが出来ることになっており、多くの大使は馬車での皇居移動を選ぶという』


東京駅丸の内口貴賓玄関からの出発です。2007年以降、東京駅の改装等により、明治生命館からの出発に変更されていましたが東京駅丸の内駅前広場の整備完了に伴い、2017年12月11日から再び東京駅丸の内口からの出発となっています。
【馬車では大使館又は大使公邸から東京駅まで自動車で送られ、馬車に乗り換える。馬車での送迎を希望しても天候等の事情で自動車送迎に切り替えられるときもある】
(参考)1日で2件(2か国)行うことが通常ですので、時間を合わせて待っていれば馬車列を往復で4回見るチャンスがあります。
・東京駅正面玄関、整列する警視庁騎馬隊




・先導警護は警視庁騎馬隊




・東京駅を出発する偽装馬車

歩道をついて歩くのは困難ゆえ、2度目のお迎えを皇居正門二重橋で待ちます。
アイルランドの大使を乗せた偽装馬車を宮殿南車寄せにお届けして、今度はフインランドの大使のお迎えは皇居坂下門から東京駅に向かいます。

坂下門からパトカーに先導されて東京駅にお迎えです。

【特使大使らを送迎する宮内庁の儀装馬車】
代理公使の場合は、接受国の元首ではなく接受国の外相に対して信任状を提出する。日本においても、代理公使の信任状は外務大臣が受け取ることになっている。

現在使用している儀装馬車4号の概要
大正2年,国内において製造。船底型割幌ふなぞこがたわりほろ、漆塗で車体の胴は海老茶色、重量1,098㎏,全長4.51m,幅1.90m,高さ2.24m,2頭曳の座馭式ざぎよしき,4人乗りの馬車です。
車体の胴両側に金高蒔絵の御紋章があります。昭和60年の文仁親王成年式などの儀式に使用されました。

随行馬車も続きます。

しばらくして・・・・。
2国目のお客様のフインランドの大使の偽装馬車が東京駅から皇居に向かってきました。



二重橋に向かいます。

二重橋を渡り宮殿南車寄に向かっています


警視庁警備部の警護車も続きます。

【二重橋】
皇居前広場から正門を経て宮殿へ至る濠に二つの橋が架かっており、手前の橋が「正門石橋」、奥の橋が「正門鉄橋」です。
「二重橋」は一般にこの二つの橋を総称して言われていますが、厳密には奥の橋を指します。 奥の橋はかつて、「下乗橋」と言われ、橋桁を支えるため、中途に台があって二重構造となっていたことからこの名がつきました。現在の橋は、昭和39年6月に架け替えられたものです。 これらの橋は、通常は使用されず、新年の一般参賀や外国賓客の皇居訪問等宮中の公式行事の際に利用されます。
2018年 12月 06日
【皇居1周ハイク】
2018.11.14
毎年、友人4人で秩父ハイキングを楽しんで30年あまり、今年からは思考を変えて都内のハイキング(古い江戸の歴史を尋ねる)に切り替えました。むろん日程は毎年の『埼玉県民の日11/14』日にちは不動です。その第1回目が「皇居1週ハイキングです」今年は運良く【信任状捧呈式の馬車列】の見学の日に当たり、見学をして皇居外苑、桜田門から歩き始めます。

◆今回のスタート地点は【桜田門】
江戸城のお堀の向こうは巨大な城壁の一部

【旧第一生命館(DNタワー21)】
終戦後、昭和20年(1945)に連合国軍総司令部(GHQ)庁舎として接収されました。マッカーサー総司令官は東京に進駐した当日に、都内を車で視察し、複数あった候補の中からこのビルを選んだといわれています。第一生命館では、現在でもマッカーサー総司令官室が保存されています。

【桜田門】
桜田堀と凱旋堀の間にある。昭和36年に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財(建造物)に指定された。特別史跡「江戸城跡」の一画を占める。なお江戸城には内桜田門と外桜田門の2つが存在するが、前者は桔梗門とも呼ばれ、単に「桜田門」という場合には後者を指すことが多い。


江戸城の名残であり、井伊直弼が三戸藩士らに暗殺されたのもこの場所です。

◆『寄り道』

【法務省旧本館(赤れんが棟)見学】

赤れんが棟は,ドイツ人建築家ベックマンとエンデ両氏の設計にかかるもので,7年余りの歳月を費やして明治28年12月,司法省として竣工されたものです。その後,昭和20年3月,戦災のためれんが壁を残し屋根,床などを焼失したため,昭和23年から同25年にかけて復旧工事を行い,屋根などの形状や材質が一部変更されていましたが,今回の改修工事では明治28年の創建当時の姿に復原され,平成6年12月27日には重要文化財に指定(外観のみ)されました。

バルコニーが開いていましたのでのぞいてみました。


街路樹は秋色


「法務省旧本館(赤れんが棟)フォトギャラリー」を参照ください。

ウォキングに戻ります。皇居一周は約5キロ、飽きないように100メートル間隔にある『各県の花の輪プレート』を探しながらのウォーキングです。
二重橋正門の「文京区の花・桜から」・・・準備中です
注:皇居ランも基本的には事故防止の為に反時計回り(左回り)ですが、私どもはウォキングですので法務省の見学を終えて、警視庁を横手に眺め、国会議事堂を正面に見ながら緩やかな三宅坂を上ります。
【警視庁】

【三宅坂】桜田門の海抜はおよそ8メートル、半蔵門は海抜はおよそ23メートル高低差は15メートルあります。
・【国会議事堂】
昭和十一年に完成した左右対称の建物となり、 正面から向かって左が衆議院、右が参議院です。

国会前の公園には【日本水準原点標庫】

・【国立劇場】
奈良の正倉院をイメージした校倉造り風の外観の建物は1966年10月に完成
【桜田濠】
素晴らしい眺めです。

水鳥も羽を休めています。

【皇居外苑の濠】
桜田濠、凱旋濠、蛤濠、半蔵濠、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵、清水濠、大手濠、桔梗濠、和田倉濠、馬場先濠、日比谷濠の12の濠から成り立っています。
・【半蔵門】
半蔵門の名前の由来は服部半蔵の組屋敷があったという説、山王祭りに使う象が大き過ぎて半分しか門に入らなかったという説があります。また江戸城開府の時、徳川家康が入城した歴史的な門のようです。

・T字路交差点で新宿通りはここから始まっていますがその起点にあるのが「半蔵門」
・【千鳥ヶ淵公園のモニュメント】
「自由の群像」・千鳥ヶ淵公園あたりから国立近代美術館は道路拡張工事中。千鳥ヶ淵公園から代官町インター下り坂のこう配はゆるくなります。

・【英国大使館】
当時の日本建築に比べ、古典様式を忠実に踏襲し、簡素化・近代化したデザインが特徴です。英国王室の紋章が施されたペディメントを持つギリシャ神殿風。

グレイッシュホワイトの外壁と緑の屋根が、優美な外観を印象付けています。

・近代美術館(工芸館)
旧近衛師団(このえしだん)司令部庁舎を保存活用したもので重要文化財に指定されています。

【乾門】

ちなみに、平成30年12月1日(土)から12月9日(日)までの9日間,秋季皇居乾通り一般公開を実施されます (皇居坂下門から参入。皇居乾門から退出,又は皇居東御苑の大手門,平川門若しくは北桔橋門から退出となります)
・竹橋、北桔橋と北桔橋門を右に見て平川橋と平川門
◎このあたりは江戸城の北東、艮(うしとら)の方角です。
「艮」の方角は鬼門にあたるため、平川門は「不浄門(ふじょうもん)」とも呼ばれ、江戸時代には城内の死者や罪人を出す特殊な用途の門でもありました。また、「御局御門(おつぼねごもん)」とも呼ばれ、大奥女中の通用門としても使用されました。
「ちょっとした公園」皇居のお壕に突き出るような形で広場があります。
写真は準備中です
【竹橋】周辺
建設中の大きなクレーン、大手の新本社ビルの予定、完成するとこの辺りでは一番高いビルになり景色が一変するでしょね。青空に赤いクレーンが映えて見上げてしまいました。

【噴水公園】
準備中
2018年 11月 26日
【第16回日比谷公園ガーデニングショー】会場
2018,10,26 日比谷公園にて
【会場の看板】

大噴水広場にはライフスタイルのガーデン東京農大や農業高校などの展示、高層ビルとのコラボが目をみはります。






高層ビルとのコラボ


ススキが揺れて・・・。




美しいベコニアの花

アップしきれないほど、日比谷公園は皇居とその周辺と一体となって、都心の緑のオアシスを形づくっています。
2018年 11月 26日
【第16回日比谷公園ガーデニングショー】園内
2018,10,26 日比谷公園にて
【秋色に染まる日比谷公園】
幕末までは松平肥前守などの屋敷地でしたが、明治時代に陸軍練兵場となりました。その後「都市の公園」として計画、設計、造成された、日本初の「洋風近代 式公園」が誕生し、平成25年に開園110年となりました。

明治36年、皇居や国会議事堂、東京駅など、首都の枢要な施設が集中する地域に、日本初の近代的洋風公園として日比谷公園は誕生しました。以来、近代日本の歩みと共に一世紀。
芝生広場(第一花壇)から丸の内高層ビル

日比谷公園はツツジの名所としても有名であり、初夏には大勢の人で賑わったと言われています。また、開園当初から現在まで続く菊花展を始め、花壇展覧会や梅、花菖蒲、ダリアなど様々な花の展覧会が盛んに催されてきました。

【公園と超高層ビル】
芝生広場(第一花壇)ミッドタウン日比谷ビル


日比谷公会堂が噴水の向こうに

歴史ある日比谷花壇

