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【花宴の巻】 (2) 京都御所 ‥ 右近の橘・左近の桜

                     ★… 【 花宴の巻 】 (2)  京都御所 ‥ 右近の橘・左近の桜 …★
                               撮影はH18,4,9 

光源氏二十歳春、宰相兼中将時代
文中に如月の二十日あまり南殿の桜の宴せさせたまふ。「南殿」とは紫宸殿の事である。舞楽類など万端御準備あそばして管楽器の伴奏で漢詩に節を付けて声高く歌い舞を舞ったりと花の宴が始まり夜が更けていく。翌日も後宴の催しがあり源氏は箏の琴をお務めになる。優美に興趣が感じられると出て来ます。
四月の初旬、京都に源氏物語のゆかりの地を訪ねて御所(一般公開の期間でしたので)に立ち寄ってみました。
                 【京都御所内】
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                 【右近の橘・左近の桜】
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その昔、平安京が造られた頃後宮に女御・更衣あまたさぶらふた宮城内はどのようであったのだろうか?現代の御所のような大きな木々に囲まれていたのだろうか?当時の人口は15・16万人だと言われている。内裏の奥に紫式部もやんごとなき人(道長の娘、彰子中宮)の後宮に仕えていたかとおもうと・・・。1000年の昔がここに存在していたかと思うと興味深く見学できました。
       【菖蒲、バイモ、ヤマブキ、都忘れ、ツツジ、春のお花を設えて・・・】 
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        【御学問所 親王宣下や御進講や月次の和歌の会等に使われた】
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紫式部というのは女房として宮中に出仕した時に呼ばれた名で、「紫」は「紫上」に関連、「式部」は父が式部の丞であったことから付けられたものだと言われている。
中流貴族の藤原宣孝と遅い結婚をして一女をもうけますが、すぐにその夫は亡くなってしまいます。式部は悲しみと絶望的な気持ちから『源氏物語』を描くことになったと思われます。
                     【舞楽類の数々】
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                    【源氏が務めた箏の琴】
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Commented by まさこ at 2006-05-01 22:49 x
お雛様を飾ると。先ほどの橘と桜を飾りますが、ほんとうにあるのですね。実物を見てみたいものです。京都はいいよね。何度行っても、飽きないよね。京都・旅行大好き。
Commented by hime-teru at 2006-05-02 00:12
まさこちゃん、こんにちは。
》京都はいいよね。・・・・実物を見てみたいものです。
「橘と桜」桜の咲く頃が良いかと思います。是非1度は・・・。

ひな祭りの歴史は古くその起源は平安時代中期までさかのぼります。その頃は三月の初めの巳の日に上巳(じょうし)の節句といって無病息災を願う祓いの行事をしていました。陰陽師を呼んで天地の神に祈り季節の食物を供え人形(ひとがた)に自分の災厄を托して海や川に流したようです。
上流の少女たちの間では“ひいな遊び”が盛んでした。「ひいな」とはお人形のこと。紙などで作った人形や御殿や身の回りの道具をまねた玩具で遊ぶもので今の“ままごと遊び”の様なものでしょう。
この事を紫式部は『源氏物語』に書いています。
長い月日の間に行事と遊びが重なって現在のような、ひな祭りになったようです。上巳の節句が三月三日に定まったのは室町時代と思われます。華やかな女性のお祭りとなるのは戦国の世が終り世の中が平和になった江戸時代からのようです。

橘と桜をひな壇に飾るのは平安時代の名残でしょうね。
by hime-teru | 2006-04-30 22:55 | 源氏物語花考察(ゆかりの地) | Trackback | Comments(2)