2016年 12月 02日
金戒光明寺
金戒光明寺】…★
2016.11.22
【金戒光明寺】
紫雲山・くろ谷さんと呼ばれています。宗旨/浄土宗 金戒光明寺の文殊菩薩と脇侍の尊像は、運慶作と伝えられています。
浄土宗の大本山、承安5年法然上人が比叡山の黒谷を下り、草庵を結ばれたのが浄土宗最初の寺院 のはじまり。 西山連峰、黒谷の西2キロの京都御所、西10キロの小倉山を眺み山門、阿弥陀堂、本堂 など18もの塔頭寺院が建ち並ぶ。
また、幕末京都守護職会津藩一千名の本陣にもなった。
【山門】
万延元年(一八六〇年)の完成。 桜上正面に後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額がある。
◎法然上人がはじめて草庵を営まれた地である。
十五歳で比叡山に登られた上人が承安5年(1175年)四十三歳の時お念仏の教えを広めるために、山頂の石の上でお念仏をされた時、 紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことから この地に草庵をむすばれた。これが浄土宗最初の寺院となった。
紫雲の庭、ご縁の庭、方丈北庭、三重の塔
………………………………………………………………………………………………
『新選組発祥の地』
幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。文久二年(1862)
に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。
約四万坪の大きな寺域により一千名の軍隊が駐屯できたもよう。
戦国時代の本陣は野戦とは違い野宿ではなくきちんとした宿舎が必要であった。
この黒谷には大小五十二の宿坊があり駐屯の為に大方丈及び宿坊二十五ヶ寺を寄宿のため明け渡したという文書が残されている。
新選組と會津藩の関係は、幕府が文久二年将軍上洛警備のため浪士組を結成したことに始まる。
★…【2016.11.22
【金戒光明寺】
紫雲山・くろ谷さんと呼ばれています。宗旨/浄土宗 金戒光明寺の文殊菩薩と脇侍の尊像は、運慶作と伝えられています。
浄土宗の大本山、承安5年法然上人が比叡山の黒谷を下り、草庵を結ばれたのが浄土宗最初の寺院 のはじまり。 西山連峰、黒谷の西2キロの京都御所、西10キロの小倉山を眺み山門、阿弥陀堂、本堂 など18もの塔頭寺院が建ち並ぶ。
また、幕末京都守護職会津藩一千名の本陣にもなった。
【山門】
万延元年(一八六〇年)の完成。 桜上正面に後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額がある。
◎法然上人がはじめて草庵を営まれた地である。
十五歳で比叡山に登られた上人が承安5年(1175年)四十三歳の時お念仏の教えを広めるために、山頂の石の上でお念仏をされた時、 紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことから この地に草庵をむすばれた。これが浄土宗最初の寺院となった。
紫雲の庭、ご縁の庭、方丈北庭、三重の塔
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『新選組発祥の地』
幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。文久二年(1862)
に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。
約四万坪の大きな寺域により一千名の軍隊が駐屯できたもよう。
戦国時代の本陣は野戦とは違い野宿ではなくきちんとした宿舎が必要であった。
この黒谷には大小五十二の宿坊があり駐屯の為に大方丈及び宿坊二十五ヶ寺を寄宿のため明け渡したという文書が残されている。
新選組と會津藩の関係は、幕府が文久二年将軍上洛警備のため浪士組を結成したことに始まる。
by hime-teru
| 2016-12-02 10:00
| 旅の情景(京都)
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