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閏年2/29 大雪

                                ★… 【 閏年 】 2012.02.29 …★
                                          関東は大雪
太陽暦で1回帰年(約365.2422日)と365日との差を埋め合わせるため、2月に第29日を加え1年を366日とする年。⇒ユリウス暦では4年に1回、現行⇒グレゴリオ暦では西暦年数で4の倍数となる年のうち100の倍数で400で割り切れないものを除いた年を閏年とする。

『暦表時は精密に時の流れを示すことができない欠点があるため、67年には1秒の時間を保持するものとして原子時が定められ、秒は暦表時の秒からセシウム原子の振動に基づく秒に切り替えられ、パリの国際報時局が国際原子時を決めることになった。この原子時の秒を基準とした人工的時系を協定世界時という。
世界の標準電波秒報時は協定世界時に基づいて72年1月1日から発信されているが、これを世界時の1秒の±0.9秒以内に管理するため、必要に応じ12月および6月(第一優先)、3月および9月(第二優先)の末日の最終秒の後へ閏秒を挿入、または削除することによって調整が行われる。現在は地球の自転が遅れ協定世界時が進んでいるため、協定世界時の23時59分59秒の次へ1秒挿入する正の閏秒が実施されているが、逆に将来地球の自転が速くなり、協定世界時のほうが遅れると負の閏秒の調整が行われることになる』

29日未明から日中にかけて当地(関東地方)は大雪に見舞われました。当地は積雪3~5㎝。
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雪がやんで孫からは雪合戦、小さな雪だるまを作り楽しんだと報告がありました(にっこり)
我が家は、咲き始めた福寿草、雪に埋もれて縮こまる。
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今年2度目の積雪でした。
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by hime-teru | 2012-02-29 23:35 | 一期一会 | Trackback | Comments(0)

2012【世界らん展】 特別展 (青い蘭)

                              ★…【 特別展 … 日本初公開!青い蘭 】 …★
                                 2012.2/26 東京ドームにて

世界に分布する野生の花は約25万種と言われています。様々な花の色の中でも「青」は少なく、「青い蘭」の数は限られており希少性が高いです。ボルネオには地球上の10%の蘭があると言われていますが、「青い蘭」に限っては、3種のみで、大変に貴重なものです。日本で宝石のような花を見られたことは幸せで御座いました。この世界らん展の最大の魅力といえましょう。

世界遺産の地に咲く希少価値の高いボルネオの「青い蘭」ボルネオは動植物の固有種が多く、世界の蘭の1割が自生していると言われ、現在も新種が発見されている。まさに美しくも魅惑的「蘭の宝石箱」。
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「青い蘭」3種が同時に展示されるのは世界初で、その中でも「ゴクシンギー」は日本初公開になります。「ゴクシンギー」を含めたボルネオの蘭は、マレーシア・サバ州野生生物局から、特別に許可を得て、ボルネオの蘭保護施設から日本へ持ち込むことが出来たようです。自然保護の観点から、本展終了後、ボルネオに返還されるとのこと。

★【クレイソセントロン属 ゴクシンギ 】
2008年JJ,Wood AL,Lamb 二人によって発表、英国王立キュー植物園のワールドチェックリストに記載、サンシュでは一番新しい新種です。ブルーの色が際だって鮮やかです
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★【クレイソセントロン属 メリリアナム】
1992年、Christensonにより発表、英国王立キュー植物園のワールドチェックリストに記載、3種の中で、一番樹勢が旺盛。
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★【クレイソセントロン属 アバシー】
2002年、Cavestro Orchidophile 153:184 で発表、英国王立キュー植物園のワールドチェックリストに記載、、一番大型で花茎が長く花総も大きく紫青が濃い。

〓『ジュエルオーキッド』〓
ビロード状の葉の細かな金や銀の葉脈が輝いていました。ニューギニヤから沖縄に数種類が分布しています。
☆【マコデス属 ペトラ 】
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☆【ドッシニア属 マルモラタ 】
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今年の目玉展示は「蘭の宝石箱~ボルネオ~」最終日の26日も長蛇の列、幻の青い蘭を見ようと多くの来場者がつめかけています。私は駆け込みで3:30分に入ったため、”ホタルの光”を聞きながら、列に並びました。終了時間間際です。定刻通り終了されれば見られないリスクを伴う。係の人に 『立ち止まらずお進みくださ~い』 と急かされながら・・・写真は慌てて思いようには撮れませんでした。時間超過ではありましたが、最後の人まで見学させてくれました事に感謝
既に、会場は慌ただしく、青いシートが手早く敷き詰められて、お片づけが始まっていました。出品者、出店者の方々が順番に引き取りに大わらわ?と言う状況でした。
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◎〔2008 特別展〕 アンデスの妖精
 【アンデスの妖精】
◎2009年は体調を崩して行けませんでした。
◎〔2010特別展〕 パフィオペディラム属サンデリアナム
 【パフィオペディラム属サンデリアナム】
◎〔2011特別展〕 クモ・へび・蝶
 【クモ・へび・蝶】
by hime-teru | 2012-02-29 23:31 | 世界らん展 | Trackback | Comments(2)

【 ハーデンベルギア 】 小町藤

                                 ★… 【 ハーデンベルギア 】 小町藤 …★
                                        2012.02.24 自宅

底冷えのする昼下がり、玄関のチャイムが鳴る。出てみると、小さな手押し車を引いて腰の曲がったお婆さんが、お花買って!・・・。聞けば茨城から来たという。この寒空にと思うと・・・つい・・・断れないのが、私の弱いところ。母と同じようなお歳では!と思うと・・・。買ってしまいました。お代金は2000円也。
そう言えば、昨年の暮れの30日に青森の弘前のリンゴ農家から来たというおじさんが、売って帰らないと家でお母ちゃんが・・・×○□▽・・お正月まで売って帰らないと・・・言われて、やはり買ってしまったのでした。同情心が沸いて・・・。
デモ、振り込め詐欺には騙されませんよ(笑)

『ハーデンベルギア』、
オーストラリア東部、タスマニアに分布するつる性の常緑樹です。日本で栽培されているのはハーデンベルギア・ヴィオラケア1種で、「ハーデンベルギア」というとこの種を指すことが多いです。
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咲いた姿がフジに似ているので、コマチフジ(小町藤)の別名があります。
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開花期は3月-5月、基本種の花色は紫ですが白やピンクもあります。
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◆『白花』
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★『ヴィオラケア』「すみれ色の」という意味で花色に由来します。
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つるを他のものにからませながら伸びていき、長さ2m~3mになります。葉は革質で厚く濃緑色、細長い二等辺三角形のようなかたちをしています。
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マメ科の植物は複葉が多いのですが、ハーデンベルギアは単葉なので、ヒトツバマメ(一つ葉豆)の和名があります。葉の付け根から花茎を出し、数十輪の小さな花を穂状に咲かせます。開花期も比較的長く、花つきも大変よい植物です。
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小さな胡蝶蘭のようですね。
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花は蝶のような形でスイートピーやエンドウにも似ていますね。花後に細い線形の鞘を付け熟すと中に数個の豆(タネ)ができます。
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梅雨の長雨や夏の暑さに弱く、強い日差しや乾燥を嫌います。耐寒温度は2℃~3℃、暖地や平地なら戸外で越冬できます。

ハーデンベルギアの名前はドイツの ハーデンベルグ伯爵夫人の名にちなむ。
by hime-teru | 2012-02-23 23:17 | 【は】行の花 | Trackback | Comments(0)

【上野華灯路】

                               ★…  【 上野華灯路 】 浮世絵行燈 …★
                                      あと … 4日で終了 
暮れなずむ都会の公園に仄かな明かりが灯り始めました。
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日本で始めての公園である上野公園は、江戸時代から景勝豊かな自然があり、人々が集い明治には博覧会など近代化の拠点として華やかでした。
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往時の賑わいは江戸や明治の浮世絵に描かれ数多く残されています。
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江戸博物館、東京芸術大学の協力の下で”歌川広重”の名作「名所江戸百景」の行燈が桜並木の足元で暖かい光に押されて浮かび上がります。
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1メートルを越える大型行燈も御座いました。浮世絵は19世紀後半からヨーロッパの美術へ大きな影響を及ぼしました。2/26日まで公園を飾ります。
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西郷さんが優しく見守ります。
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上野の街が少しずつ変わっていきます。
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by hime-teru | 2012-02-22 23:36 | 徒然散策(関東編) | Trackback | Comments(0)

上野公園(東京国立博物館)

                                ★… 【 雨に潤う 東京国立博物館 】 …★
                                      2012.02.07 上野にて
久しぶりの御湿りに見舞われた2月の7日に日中国交正常化40周年 特別展「北京故宮博物院200選」を見に行ってきました。混雑を避けて3時頃の入館は正解でした。人並みが去った後の会場はゆっくりと鑑賞できました。
特別展は紫禁城(しきんじょう)に由来する北京故宮博物院の名宝、青銅器や玉器、陶磁器、漆器、琺瑯器、染織品、宮廷絵画や文人画の名品、荒々しい書異国の珍しく美しい孔雀の羽や、真珠や珊瑚などで彩られたインペリアル・ローブ刺繍の技術が最高に達した乾隆帝時代の「皇帝のコレクション」は素晴らしかったです。

北宋時代の絵巻、書画などは、国宝級一級文物は満足度の高い内容でした。写実的な乾隆帝の青年像と壮年像の二つの大作を実際に見られたことはとても幸いでした。館内は撮影禁止でしたが、周辺は雨にしっとりと濡れて美しい光景でした。
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★【東京国立博物館】
日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。また、社団法人日本工芸会の本部がある。
本館は洋風のコンクリート建築物に和風の屋根を載せた帝冠様式の代表作品。前身の帝室博物館は明治14年(1881)、ジョサイア・コンドルの設計で赤レンガ造2階建ての建物でした。関東大震災で倒壊したため、現在のものに建て替えられたのです。
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修学旅行生も見学に来ていました。
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★【表慶館】1909年(明治42年)東宮皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の成婚を祝う目的で開館した。明治末期の洋風建築を代表する建物です。入口に二頭のライオンがお出迎えです。
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雨跡の水たまりに美しく映える表慶館の様相。
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★【平成館】
皇太子徳仁親王(浩宮)の成婚を記念して1999年(平成11年)に開館。こちらで「北京故宮博物院200選」
が開催されています。
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館内から
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窓に本館の写りこみ、くれなずむ夕暮れ時
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★【法隆寺宝物館】
1878年(明治11年)法隆寺から皇室に献納された「法隆寺献納宝物」300件あまりを保存展示するため、1964年(昭和39年)開館された。人工池を配した明るい外観ニューヨーク近代美術館を手がけたことで知られる谷口吉生の設計によるものです
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雪がまだ溶けずにありました。
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柳もまだ冬眠中
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博物館を背に「文化の森」噴水広場の大工事が進行中で御座いました。新しいデザインの噴水…・災害時には、救助活動の拠点やヘリコプターの離発着場となります。2箇所のカフェも建てられています。
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近づいてみると・・・大工事です
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正面から博物館
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リニュ-アルされ完成すると、こういう風景になります。楽しみですね。
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by hime-teru | 2012-02-16 13:44 | 徒然散策(関東編) | Trackback | Comments(0)

〓撞球今昔〓

                        ★… 【 一行三昧 】  町田プロの アーティスティックの歩み & 継承 …★

アーティスティックに入られた経緯(キッカケ)もお話し下さいました。町田氏の回想は日本のアーティスティックの回想録でもあります。
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私が幼少の時に、私の父が曲球が好きであったことと、よくお店でお客さんがビリヤードに興味を持ってくれるようにと、アトラクション的に見せていまして、それをいつも傍で見ていて子供の私も興味を持つようになりました。

父が全日本四ッ球選手権で第5位に入賞した時、試合終了後に、上位5位までのプレイヤーが曲球を順番に披露することになり、その時はかなり上手く行ったと言う話に聞いたことがあります。当時はアマチュアプレイヤーが、公的に曲球を披露するのは珍しかったのではないかと思います。
 
件の状況の中で、父の目を盗んで私はマッセやジャンプショットなどを練習して、よくラシャを傷つけたり、将又、ジャンプショットで、お店に置いてあった金魚が泳いでいる水槽を割ってしまったり…大変な事になり、当然、父に大変な剣幕で怒られた思い出も甦ります。無鉄砲に突進する私ですから、当時の父には将来の私の姿など想像もつかなかったことでしょう。
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私が初めてコーナーで4回以上入れるマッセの 「 ジミ― 」 を成功させたのは小学3年生の時でした。当時はチビでしたので、顔の位置と球の位置がやたらと近かったのを今でも憶えています。

ちなみに、父がやっていた曲球を見ていたお客さんの中に当時、初心者で高校生だった島田暁夫プロがいたそうです。島田さんはその時が切っ掛けでビリヤードに興味を持ち、ビリヤードを本格的に始めるようになったそうです。父は当初、その大言壮語の言葉に驚いたようすだったようだが、その後、島田プロ本人に直接聞いてました。間違いなく本当の話だったという事を確認して驚かされました。

その後、島田プロは全日本3C選手権で2度優勝、全日本アーティスティック選手権にも優勝、そしてビリヤードがアジアンゲームスに初めて公式競技として行なわれた時に、島田プロはスリークッション男子シングルスにおいて最大のライバルの韓国勢を破り、見事、金メダルを獲得しました。
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人の縁というものは不思議なものですね。
2010アジアンドゲーム(ハノイ)東アジア競技大会(香港)にてメダル獲得代表選手への報奨金授与式の記念写真(右より、梅田選手、町田選手、森選手)
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師の小林先生と記念写真
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後に、私が20才の時に小林先生に誘われて、先生が出場していた 「世界五種目選手権」 の観戦、及び、「 小林伸明ヨーロッパエキジビションツアー 」 の付き添いなど、オランダ・ベルギーなどのヨーロッパ研修旅行に私は約1ヶ月程に渡って行ってきました。

【クールマンとの出会い】
初めての外国旅行でしたが、その時に4日間に渡る世界選手権を観戦し、小林先生のエキジビションを見学、また、クールマン・ディリス・バンブラハトなどの世界の超一流プレイヤーとの競演もありました。その時に一度だけ、そういったエキジビションの前座のゲームを私も勤めさせて頂いたこともあります。

また、クールマンの家を訪問し、食事をご馳走になったり、家の中に設置してあるテーブルで目の前でクールマンがプレイをしてくれて、直接私にストロークのアドバイスなどもして戴きました。そしてクールマン・スタイラースの曲球ショーのビデオの上映会があり、初めて世界トップの曲球を見ました。更にその後で、エキジビションでスタイラースの曲球を実際に目の前でも見ました、やはり本物は凄い迫力でした。
その時にスタイラースはスリークッションのエキジビションで、小林先生に堂々の貫禄で勝利し、スリーでもヨーロッパチャンピオンの実績を持つ超一流のトッププレイヤーであることを知らされました。

その旅行中で、当時のアーティスティックのヨーロッパチャンピオン、ハンス・ヤガ―選手の家を訪問した時に彼のビリヤードルームに行くと、アーティスティック専用テーブルがあり色々なキューの種類や道具があって目の前でプレイも見せてくれて、小林先生とハンス選手で次々と一緒にアーティスティックプレイを練習していました。

当時のアーティスティック・曲球のプレイは、まだ象牙球で行なわれておりました。当時は 「 アーティスティック・曲球は象牙球 」 というのは専門のプレイヤーでは常識でした。
その時の、稀にも見るような内容に富んだ大旅行で、私がアーティスティックに対して特別な想いを持つようになった次第です。旅行から帰国後の直後に、小林先生が新大久保に「 ビリヤード小林 」 を開店することになり、その時に私が弟子入りすることになりました。
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悔しかった思い
日本人がアーティスティックの世界選手権に初めて出場したのは、1985年オランダのスルイスで開催された時で住吉大海選手が最初でした。
その頃、まだ全日本アーティスティックがまだ行なわれていない時代で、世界大会への日本代表の方法は、てっきり国内予選で行なわれるものと、私は思っておりましたが、実際には予選は行なわれず、協会と選手会の推薦で住吉選手が行くことになったのです。

当時、やる気満々で準備もしていた私はこれには大変不服がありましたので、一応異議を唱えたのですが、協会・選手会のトップの役員数名から、 「今回だけは我慢するように」と無理やり説得され、まだまだ若手だった私は渋々承諾せざるを得なくなり、余儀なく苦汁を飲む想いをすることになりました。その時の悔しさは今でも忘れません。その時の住吉選手の世界大会の結果は出場者10人中10位の最下位でした。しかも、9位とのスコアは大差がついていました、結果を聞いて私の悔しさは倍増です。

翌年、ようやく、第1回の全日本アーティスティック選手権が開催される事になり、果たして誰が第1回のチャンピオンになるのか?当時ビリヤード界の話題になり注目されました。まず、関東大会の決勝の前に予選があり、それは30種目のショートゲームでした。気合満々の私が2位の住吉選手以をダブルスコアで引き離して1着で通過しました。その時には小林先生も参加していましたが、私に3倍のスコアの差をつけられ、その後の先生は、2度と出場されず、その試合が小林先生の最初で最後のアーティスティック競技の参加となってしまいました。

ところがです、決勝に行ったら対戦方式でトーナメント制の8種目での超短距離一発勝負、私はベスト4で、住吉選手に惜敗してしまいました。ちなみにその時の関東大会の優勝は新井達雄選手でした。(勝負の世界は厳しいものです
ですが、同じ年に青山円形劇場で第1回の全日本選手権が開催され、予選は12種目、ベスト4から8種目マッチもまた超短距離で行なわれましたが、今度は住吉選手にも勝ち、念願の全日本を制覇する事になりました。
☆★ちなみに、大会では、まともな象牙球を持っている選手が少なく不公平という理由で、第1回大会はプラスチック球で行なわれていました。

【世界大会での苦労話】
私が初めてアーティスティックの世界選手権に出場する事になった時に象牙球はどうしていたのか?。

まず、真球に近いなるべく正確な象牙球で練習をしなくてはいけなかったので、父の持っていた昔の『大球の象牙球』を分けて貰い、それを「球クリ」 に出さなくてはならなかったのですが、すでに当時は「球クリ屋」さんは皆無、困った私は人伝に昔、球クリをやっていたという淡路亭というビリヤードメーカーの職人さんを訪ねました。その人は当時はキュー製造の高齢になる職人さんで、 今はやっていないし専用のゲージが付いている 球クリの機械が無いんだよ!と言われ、私は肩を落とし落胆
様子を察して、職人さんが 仕方ない!キューを作る旋盤を利用してやってみるか?その代わり出来が悪かったらゴメンなさい、だよ!? 」と言って、4個の球をなんとか引き受けてくれました。出来上がった時、”ちょっと満足できないけど、まあまあの出来だし使えると思うよ”と言ってくれまして、これで安心して練習に打ち込められる準備が整いました。

それから世界大会までの約1ヶ月半の間、ハードトレーニングに精を出しました。初めての世界選手権に出れる事になったので、それに出れるだけで嬉しくて、睡眠時間を削って、どれだけハードにこなしていても気持ちが明るく、自分としては何の苦にも思いませんでした。
そして、メキシコ大会に無欲で挑んで行った若い私は、初出場で幸運にもあのスタイラースの次で第2位に入賞し 「 世界を驚かせた日本人 」 として当時の向こうの新聞に載ることになりました。
(まあ、一番驚いていたのは当時の私の父だったようでしたが)

ちなみに会場で使用された象牙球は、明らかにやや狂いが出ていて、だいぶコースがそれたりして、当たっている筈のコースが外れたり、逆に当っていないコースなのに当ったりで、ヨーロッパの上位の選手達はかなり苦しんでいたようです。
一方、私は、普段の練習も同じ様な象牙球で撞いていましたので、あまり気になりませんでした。
そのせいか、ボールのコースの反れ方もある程度読めていたので、それが良い結果を生んだようでした。

世界に出て行けば、そこに”何があるのか”は解かりません。

日本のアーティスティックの継承
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現在、全日本アーティスティック選手権の上位で活躍しているメンバーの界、渡辺元、小林英明、各プロ、アマチュアでは、松山竜、井関、といったメンバーがいますが、小林先生の息子の小林英明は私の店に20年ほど前に1年間ほど働いていて、彼はその間にアーティスティックを憶えました。その小林英明は渡辺元にアーティスティックを教えましたので、渡辺君は私の孫弟子のようなものです。
界プロは、やはり14年前に私の店で2年間働き、アーティスティックの基本を憶えました。松山竜、井関、といったメンバーも元々私の店でアーティスティックを憶えた人達なので、ほとんど私が教えてきた人間ということになります。
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こうして時代は引き継がれ移り行く、といった所なのでしょうか。

【雑感】
5回に渡り「撞球の今昔」の記載、町田様からたくさんの事を教わりました。大変、勉強になりました。
その道を究められた町田様ならではの、ビリヤードへの思い、そして、あまりある体験談、貴重なお話しは次へのステップとなりましょう。
スポーツも芸術も文学も、物事の本質や真相を深く追求すればするほど、何処までも奥が深く、枝葉が幾重にも広がり、未知の世界は限りなく続きます。知る喜びは大きな感動と感謝に繋がります。町田様、そして、写真を提供下さったYさんに心よりお礼を申し上げます。ありがとう御座いました。

また、このブログがビリヤード競技を楽しまれている方々の、お目に止まり、せめてもの応援歌になれば幸いで御座います。技術の緻密さや戦術を競うメンタルスポーツですが、競技スポーツとしてだけでなく、生涯スポーツとして、町田氏を筆頭にプロ、アマ問わずビリヤード競技の継承に使命感を持って伝え引き継がれて行かれることを心から願って止みません。

写真の提供を頂いたYさんのサイトも必見です。(撮り続ける忍耐力には敬服致します)
 【ビリヤード写真書庫】
by hime-teru | 2012-02-14 23:31 | 撞球 | Trackback | Comments(2)

〓撞球今昔〓

                       ★… 【 一行三昧 】 … 『町田正』 … 経験大要論 …★

経験は自己を豊かにすると申します。才能とパワーの陰には成し遂げる努力と技術と忍耐があります。道をきわめた人は、頭がフレキシブルで謙虚な人が多いような気が致します。私のビリヤードの記事を見て、町田プロが”象牙球からプラスチック球に移り行く時代”のプロセスを通してご自身の道程を追想して体験談を送って下さいました。
貴重なお話しは日本ビリヤードの変遷でもあり歴史でもあります。町田氏のビリヤードへの思い、努力、そして、仕事に対するプライドが優しく心に伝わります。
町田プロの許可を得て此処に書き記しますが、此処に書きました記事の転載は固くお断り申し上げます。

                      【象牙球からプラスチック球に移り行く時代】
象牙球とプラスチック球の対比

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【違いの分析】
象牙球とプラスチック球の違いの一番は、感覚的に五感の聴、「音の違い」でしょう。
象牙球同士のぶつかる音と、プラスチック球のぶつかる球の音は聞こえ方に格段の違いを感じます。
 ◆ A)象牙球
象牙球は、はっきりとクリアな澄んだ音がします。それに比べればプラスチック球の音は少し濁ったような鈍い音がします。その音の違いは、私があくまで個人的な感想で言いますと、まるで”備長炭の音色”と”普通の黒炭”を叩いた音の違いに近いのではないかと感じるほどです。

 ◆ B)プラスチック球
現在のプラスチック球は出た当時よりも改善され、より品質が向上されてはいますが、球同士の衝突音はまだまだ象牙球には程遠いものがあります。 その部分も含めて今後はメーカー側には研究開発を進めて行ってほしいと個人的には望んでいます。   (化学、先端技術の目覚ましい進歩の中で、無限の可能性があるならば・・)

大正、昭和の木造の建物が多かった時代には、広い撞球場の室内で象牙球同士の当たる音がとても良く鳴り響いて外にも聞こえてきたりしました。仕事を終えて帰路につく人や、道を歩いている人などに象牙球の何ともいえない澄んだ音が聞こえ伝わり、その楽しそうな球の音色に誘われるかの如く、ついフラフラと撞球場に足を運んでしまう、そんな話を昔からビリヤードを嗜んで来られたご年配の方からよく聞かされました。
                ( 私hime-teruが、思いますに、もしかして「水琴窟の音色」の様な風情があったのではと想像致します )
【対比】
象牙球で引き球を撞いてみるとプラスチック球と比べて手応えが重くなかなか引けません。相当しっかり撞いてキューを効かせないと手球がちゃんと戻らない感じがします。逆に押し球を撞くと手球がすぐに前に出てよく押せます。

プラスチック球は象牙の球と比べて、球同士が当ると分離角度的にはよく割れるような動きをします。プラスチック球の方がよく弾ける感じです。

象牙球同士では、それほど割れる感じがしません。ですので、3Cゲームなどでは薄い球に関しては少し楽な感じがします。 その代わり、先球に厚く当てて弾かせるような裏回しのような形になると、かなりしっかり撞かないと自分のイメージの角度が出せないような難しさがあります。
 
象牙球でジャンプショットをしようとするとプラスチック球と比べて、なかなか手球が飛びません。しかし、一方で私のイメージではプラスチック球に比べて象牙球の方が汚れにくくコンディションが変ってもボールの動き自体には変化が少ない印象があります。

アーティスティックのような極限的なフルショットで象牙球に回転をつけると、引き球の際には手球が先球の正面に当ると手球が一旦止まり、瞬間的に一拍時間を置いてから段々とスピードを上げながら戻って来ます。

厚みをずらすと象牙球はプラスチック球と比べて放物線のカーブの動きがゆったりとした感じになるイメージがあります。

押し球でダブルクッションを撞くと手球が先球に当り、クッションに入った後で、プラスチック球と比べて手前にカーブがゆったりと大きく膨らんでから前に押して進んで行くような動きをします。

マッセで回転を急激に与えた場合、手球の動きはプラスチック球と比べて、やはりカーブの出方がゆっくりとした味のある動きに見えます。

このような性質の違いは、現状ではプラスチック球の方が微妙に硬くて弾きやすく、比べて象牙球の方は少々柔かめで弾き難い、ボール同士が当ると衝撃が僅かに吸収されるようなイメージがある為です。

象牙球に少々重心のずれがあったり、狂いがあったりするとマッセで強く回転を効かせた場合、 「 ゴォ~! 」 あるいは「ブ~ン」 「ゴロゴロゴロ・・・」 と、いったようなある種のエンジンのような音が響いて、動いて行きます。

『要点』
他のビリヤード競技が、全てプラスチック球に変更されてもアーティスティックの世界選手権だけは1996年まで象牙球が使用されていたのは、以上の様なボールの性質、動きなどに「アーティスティックプレイ」に関しては、特に如実の違いがあるということが大きな理由になります。

従いまして、アーティスティックの試合ではプラスチック球よりも象牙球の方が遥かに実力の差が出ます。根本的なパワー・キュー切れなどのプレイが象牙球の方が強く要求されるからです。逆にプラスチック球でのアーティスティックプレイではその差が縮んでしまう事になります。

象牙球からプラスチック球に変更になった時にそれ以降、アーティスティックの大会に出るのを辞める宣言をしてしまった人もいた程です。

象牙球からプラスチック球に全ての競技が変更になった後でも、暫くはエキジビションの曲球の時だけは持参の象牙球を持ち出して披露していたプレイヤーは少なくありませんでしたが、最近はそれも無くなって、象牙球の動きの代用にプラスチック球に良く滑るワックスを塗りたくって、エキジビションの曲球は行なわれています。

 続く
by hime-teru | 2012-02-09 00:19 | 撞球 | Trackback | Comments(0)

〓撞球の今昔〓

                              ★… 【 撞球の補足 】 …★
【協会】の発足と【競技の誕生】に触れておきましょう。
(町田氏からの補足を取り入れながらの更新です)
 『協会』の発足
1926年4月8日に日本撞球協会が設立。
1951年に日本ビリヤード協会に変更。
1964年には世界ビリヤード連盟にようやく加盟。
1990年2月に文部省の法人の認可を得て協会が社団法人となりました。
(協会の法人化の為に選手の方達は半強制的に寄付金が課せられたとのこと )

 『競技の誕生』
国際的に公式競技として一番古いゲームは「イングリッシュビリヤード」和名では「英国式ポケット」 といいます。(スヌーカーテーブルに白白赤の3個の球を使用し、ポケットに先球や手球を入れたり、或いはキャロムで得点したりの組み合わせで行ないます)
現在でもインドネシアなどの東南アジアの一部の地域で親しまれ、日本では、『霞会館、東京倶楽部』などの一部の社交クラブ等で昔から引き継がれて親しまれています。

 「イングリッシュビリヤード」が全てのビリヤードゲームの根本(大元)になるゲームです。
  ここからスヌーカー、キャロム、プール(ポケット)などのゲームへと派生し枝分かれしていきます。
 ①先球をポケットに入れるだけにしたのがスヌーカー
 ②手球を先球2個に当てるだけにして、ポケットの穴を塞いでフランスで発達して行ったのがキャロム(フレンチビリヤード)。 
 ③ゲームをなるべく簡単にして、テーブルを小型にしてポケットの穴を広くして球が入り易くし、ボールに番号を付け、ブランズウィックが素人一般大衆に親しまれやすいように開発したのが、アメリカンポケット(プール)ということになります。

【世界タイトルに挑戦した初の女性】 桂マサ子さん
男性の社会であったビリヤード競技に新風を吹き込んだ女性がいたことを此処に記しておきます。
『桂マサ子(1913年 - 1995年)さん』
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日本出身でアメリカで活躍した女性のビリヤード選手です。師匠である日本チャンピオンの松山金嶺の指導の下、日本でただ一人の女性プロビリヤードプレーヤーだった女性です。貴重な写真は友人からの提供です。
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「弱き者よ汝の名は女なり」と言う言葉を払拭し、女性に新たな境地を開いた人でもあります。
桂女史により現代では女性プロも沢山輩出され活躍されています。

【象牙】についても触れておきましょう。
象牙はゾウの上顎門歯(切歯)が根を生ずることなく一生長く伸び続け牙(きば)になったもの草の根を掘ったり、木の皮をはぐのに使用するため磨滅し、アフリカ象の雄の象牙がもっとも大きく、長さ3.58メートルにも達したものが過去に記録がある。(重さは長さ3.1メートル太さ65センチの牙で、105.8キロに達した報告がある)
『特徴』
歯の主体である堅い組織が他の動物に比べて発達している部分は象牙質と呼び、もろいエナメル質は、生え初めの象牙の先端を覆うだけである。象牙の外側はしばしば暗色であるが、内部は白またはクリーム色で美しい木目があり、きめが細かいため入念な細工に適し、縞(しま)目の変化や半透明の乳白の色調が美しい。古来から、牙彫(げちよう)工芸品の材料として洋の東西を問わず珍重されました。

歴史の中でビリヤードのボールは、石や木や粘土で製作されましたが、象牙が使用されるようになった1800年代中頃には象牙需要の高まり、驚くほど数多くの象が殺されましたそうです。(1頭の象牙で8個のビリヤードボールが限界だったようです)
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WWF(世界野生生物基金)の調査報告では、とくに密猟が急増した1983年、年間において400~500頭のゾウが犠牲になったと告げている。このような状態では、種の保存すら危ぶまれるため、日本においても1985年(昭和60)ワシントン条約に基づく輸入貿易管理令が改正された。

ワシントン条約(CITES)「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」は、野生動植物の国際取引の規制を、輸出国と輸入国とが協力して実施することにより、採取・捕獲を抑制して絶滅のおそれのある野生動植物の保護をはかることを目的とする。

【プラスチックボールの生い立ち】
プラスチック球が出てきた当初は俗的に ”練り球”と呼ばれていました。スーパーアラミスがまだ日本にきていない時代のことです。
プラスチック球は、そもそも象牙と同じ硬度と比重ということが条件で造られていますが、現在製造されている製品は、象牙にほぼ近いとはいえ、完全に同じとは言い難く、撞いてみると、まだまだ、だいぶ性質に違いがあることが認められます。

 『ビリヤード産業』
ニューヨークのビリヤードボールのメーカー(フェラン・アンド・コレンダー )が象牙に代わるボールの素材を募る。懸賞金は1万ドルだったそうです。
1869年、アメリカの発明家 ジョン・ウェスリー・ハイアットが ニトロセルロースを使用することに成功。(懸賞金が授与されたかどうかは不明)
1870年には、セルロイドとして商標登録されましたが、セルロイドは燃えやすい性質がありベークライト、クリスタレートや、他のプラスチック化合物等、切磋琢磨しながら改良を重ね、現在ではヒビや衝撃に強いプラスチック素材を用いて製造の過程を辿る。アクリル樹脂はアメリカのエレファント・ボールズ社、フレンジー・スポーツ社、香港のヴィグマ社などが製造しています
ベルギーの サラク社(Saluc S.A.)は、現在、 スーパーアラミス・ブランズウィック・センテニアルのブランド名で、フェノール樹脂製のボールを製造しています。

現在では全て、UMBなどの公式球にはスーパーアラミスが使用されています。
① キャロム公式球…直径61,5mm、重さ205~210g、
② ポケット…直径57,1mm(誤差の範囲は0,127mmまで) 重さは165~175g。
③ スヌーカー…直径5、25mm、誤差の範囲は0、05mmまで(実際5、24mm)
重量に詳細の基準は定められていないが、セット中のボールは全て統一(3グラム程度の許容誤差)

④ ロシアン・ビリヤード(ロシアン・ピラミッド) …直径68mmの大きなボールを使用。

◆プラスチック球のクリーニング方法
白球もカラーボールも一緒ですが、プラスチック球が世に出てきた当時は、よく金属磨きに使用される溶液をスポンジか布に付けて拭いていた事も多かったのですが、この方法はボールに磨耗がおき、すぐに球が小さくなってきますので、近年では市販されているワックス系のクリーニング液などでボールを拭くのが一般的です。(特にキャロムゲームの場合は、コンディションの調整に、かなり気を遣いますので様々な方法があります)

①ビリヤードクロス(羅紗・ラシャ)が新らしく、球がよく滑るような状態では、ボールは水拭きしてワックスを落として乾いた布で拭きます。
②使い込んであまり滑らなくなったラシャの場合は、球にワックスをある程度残した状態で拭いておく。羅紗のの状態応じて微妙に調整する必要が出てきます。 
③最近は使い込んだラシャに直接ワックスを水で薄めるなどして霧吹きなどで吹きかけたり、掃除の時に濡れた布にワックスを染み込ませ、ラシャを水拭きする等の方法があります。当然ボールもそれに合わせる必要がありますが、なかなか調整が専門的かつ微妙なもので、素人には難しいかもしれません。

                            〓 【 日本でのゲームの始まり 】 〓
 四ッ球
昭和26年-日本撞球協会(NDK)により、第1回「全日本四ッ球選手権大会」が開催。第1回優勝者は 厨川博孝。(当時は2・3・5点制の500点ゲームでした)
昭和29年の第2回より、1000点ゲームとなり、昭和43年の第6回大会まで〔象牙球〕が使用されました。
昭和44年‐第7回大会よりプラスチック球の使用が始まる。
昭和45年‐サーブの形が変更になる(2・3・5点制から1点制へと数え方が変更)
昭和47年‐第10回大会より、それまでの65,5mm球(大玉)から61,5mm球に変更されました。
(この大会から漸く四ッ球の公式球がキャロム世界公式標準サイズの大きさと同じになる)
 同時期に公式球に合わせる為、多くのビリヤード場で中台のクッションを低くする工事を彼方此方で余儀なくされました。
昭和54年‐ 第16回より、制限枠が広がりフリーゲームと同じくダイヤモンド方式となりました。

 町田家の大会記録の抜粋 … 町田氏より。
昭和46年‐三越撞球場で開催された時の第9回大会で優勝した桂典子。
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400点ゲーム、10ゲームの内、初キュー撞き切りが9回、という途方もない記録が最高でしょう。
( その大会で町田氏の お父上町田善司氏)が関東代表で第5位に入賞されています )

昭和53年‐第15回大会では お兄様町田吉久氏)優勝。
(当時、第1ゲームで300点を約10分というスピードで撞き切り、周りから天才と謳われていました)
昭和58年 第20回大会では町田プロ初優勝

全日本四ッ球選手権」はプロ・アマチュアを含めた”オープン戦”として開催されておりましたが、単独の四ッ球選手権では町田氏の優勝大会が最後となり廃止になりました。

ちなみに町田プロの四ッ球の全日本選手権での戦績は5年間トータルで300点ゲームで1キュー平均のアベレージが平均200点を超えて、出場選手の中では間違いなくトップアベレージです

現在の「全日本四ッ球選手権」はオープンでは無く正式にはアマチュア選手権になっています。
by hime-teru | 2012-02-09 00:11 | 撞球 | Trackback | Comments(0)