★ 野草デジカメ日記★:源氏物語花考察(ゆかりの地)
2015-06-06T23:43:34+09:00
hime-teru
銀塩カメラからデジカメに移行し花の撮影を始めました。山野草や感動した旅の風景、源氏物語の花撮影、趣味の絵や陶芸作品をアップしています。
Excite Blog
【宇治・平等院 】
http://yasounikki.exblog.jp/23223554/
2015-06-05T22:24:00+09:00
2015-06-06T23:43:34+09:00
2015-06-05T22:24:52+09:00
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源氏物語花考察(ゆかりの地)
2015.5/16
葵祭で出掛けた京都、駆け足で青紅葉の美しい宇治や嵯峨野を訪ねました。
【平成の世に美しく生まれ変わった平等院】
平安時代、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。時の関白藤原頼通が父 道長より譲り受けた別業を仏寺に改め「平等院」としました。
専門的な知識と高度な技術を有する職人たちの手によって修繕され美しく生まれ変わりました。
2008年に訪ねた時は外部の柱も漆喰壁も下の写真のような状態でした。(堂内は今年が修理予定)のようです。阿弥陀如来さまのライトアップされてお顔は9年前の11月の午後の4時過ぎの撮影です。お顔が優しくほほえんでおいででした。ハッキリ見ることが出来ました。
今年は・・・・。国宝の「阿弥陀如来坐像」は日本独自の寄木造りの技法。円満な顔は表情にやさしさにあふれ、豊かな頬やくっきりした目鼻立ち、稜がある唇など古様な雰囲気を残していますが・・!。内部の工事は今年平成27年6月11日から始められるようです。
天喜元年(1053)に阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には平安時代の最高の仏師定朝によって
制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされています。約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されております。
参道からご案内致しましょう。
入り口の青紅葉はとても美しい季節です。
修学旅行の学生さんの姿は絶え間なく。
大切な文化財を継承するために鳳凰堂中堂内部の長押(なげし)上の小壁(こかべ)に懸けならべられている52躯の菩薩像も平成27年6月11日~平成27年10月31日彩色、漆塗膜等の剥落止めの工事が始まるようです。
藤原道真の息子頼通によって寺院として改築されるまでは、別荘として200年余りの長きに渡って平安貴族たちが所有していました。その歴代の主の一人があの「光源氏」のモデルとなった源 融(みなもとのとおる)です。源氏物語の終盤部分では、光源氏が息子の夕霧に譲った宇治のお屋敷が度々登場しています 。
網代木の小道の桜には沢山の「宿り木」が・・・。
宇治は源氏物語「宇治十帖」の舞台です。]]>
【葵祭(賀茂祭)】 源氏物語 巻9 『葵の巻』
http://yasounikki.exblog.jp/23143116/
2015-05-21T10:38:00+09:00
2015-05-28T14:39:18+09:00
2015-05-21T10:38:05+09:00
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源氏物語花考察(ゆかりの地)
2015.5/15 京都葵祭にて
漸く思いが叶い今年は京都の葵祭(賀茂祭)に出掛ける事が出来ました。
台風一過の暑い日になりましたが、少し早めの御所の中で待機です。10数年前の「時代祭」見学時は、比較的ゆったり見物が出来たのですが・・、近年の「葵祭」は外国からの観光客が増え、指定席が設けられ沢山の人出で御座いました。(指定席は2.000円なり)
【平成27年度 斎王代】
斎王代は毎年、京都ゆかりの未婚女性が推薦で選ばれ、今年は京菓子老舗・老松(おいまつ)のお嬢さんが選ばれました。
私は早めの御所でしたので、丁度良い場所で待機しました。警備の騎馬警察の見回り馬の馬糞を拾う人が付き添っています。(このお祭りの主催は上下の賀茂神社のようです)
次第は、(1)警護列(検非違使<けびいし・山城使),(2)幣物列(御幣櫃・内蔵寮史生),(3)走馬列(走馬〈御馬〉・馬寮使)、(4)勅使列(牛車〈御所車〉・舞楽人・勅使〈近衛使〉・内蔵使),
(5)斎王列(斎王代・女人・牛車〈女房車〉)の五部に構成されて「斎王代」を中心に御所の玉砂利を踏んで行列が進みます。
沢山の写真をアップ致しますが、『源氏物語』葵巻などに描かれている賀茂祭の王朝盛儀の模様は、現行の祭りからも十分にしのぶことができました。暫し写真から平安時代をお楽しみ下さいますれば幸いです。
【平安朝の優雅な古典行列は平安貴族そのままの姿で列をつくり京都御所を出発】
※警護列(検非違使<けびいし・山城使)から・・・。
※(2)幣物列(御幣櫃・内蔵寮史生)
※(3)走馬列(走馬〈御馬〉・馬寮使)
次へ・・]]>
【 葵祭(賀茂祭)】 源氏物語 巻9 『葵の巻』
http://yasounikki.exblog.jp/23145408/
2015-05-21T10:21:00+09:00
2015-05-22T00:08:31+09:00
2015-05-21T23:21:18+09:00
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源氏物語花考察(ゆかりの地)
2015.5/15 京都葵祭にて
※(4)勅使列(牛車〈御所車〉・舞楽人・勅使〈近衛使〉・内蔵使
冠や牛車・桟敷の御簾(みす)などフタバアオイ(賀茂アオイ)とカツラの組合せで飾ってあります。
葵は京都に自生するフタバアオイという種類で、古くから雷除けや魔除けの護符として珍重されてきた。祭りにおいても、そうした邪気を祓うという意味で、この葵の葉がつけられる。勅使がつける葵は葵鬘(あおいかずら)と呼ばれ、鬘のカツラが桂に通じるということで、桂の小枝も使用されるという説もある。
【風流傘】
風流傘は重いので交代しながら進みます。
■葵祭の由来とは?
葵祭のその名の由来は、御簾や牛車・勅使の衣冠や牛馬にまで飾られた葵の葉や花。現在では藤の花を牛車の屋根から飾り、その下を山吹の黄色や葵の花が彩っています。薄紫のさした藤の花は涼しげな5月の季節にふさわしく春の風を呼ぶのイメージでしょうか?
【牛車】が進みます。
【玉砂利の中を押す供奉者】力仕事です。
御所車はこんなにも大きいのです。
もしかして・・・玉砂利のくぼみにはまり・・・
御所からの出口間近
次へ・・・歳王代と女人・牛車〈女房車へ続きます
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【 葵祭(賀茂祭)】 源氏物語 巻9 『葵の巻』
http://yasounikki.exblog.jp/23145600/
2015-05-20T10:10:00+09:00
2015-05-28T14:49:46+09:00
2015-05-22T00:20:09+09:00
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源氏物語花考察(ゆかりの地)
2015.5/15 京都葵祭にて
京都三大祭の一つの葵祭は、古くは京都の先住民である賀茂氏の祭で五穀豊穣を祈願するものでしたが、平安遷都より後、国家的な祭へと変化していきました。平安時代には「賀茂祭」と呼ばれ貴族にも人気でした。 源氏物語に登場する「賀茂祭」は、天皇の命を受けた勅使が御所から下上の賀茂神社へと出向き、神殿において御祭文や祝詞、東遊舞などを奉納する社頭の儀が祭り(儀式)が目的だったようです。
【斎院(斎王)のこと】
『源氏物語』には光源氏の従姉妹の朝顔斎院登場します。歴代の斎院は文雅で名を馳せた人物が多く、選子内親王から何か珍しい物語をと所望された中宮彰子が、紫式部に新しい作品を書くよう命じて生まれたとの伝承があり、『枕草子』にも選子内親王と中宮定子の文の贈答の場面が見られるなど、宮中の後宮と斎院との文化交流の豊かさが伺えます。両賀茂神社に奉仕した斎王を「賀茂斎院」と称する。
※5)斎王列(斎王代・女人・牛車〈女房車〉
国家的な行事として行われてきたので、わが国の祭のなかでも、数少ない王朝風俗の伝統が残されている。
【馬上の女人】
【牛車〈女房車〉】飾りつけが少々違ってシンプルですね。
行列の最後には救急車や催事の車(暑い日でした。熱中症にならないようにと祈りながら御所から見送りました)
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【上賀茂神社(賀茂別雷神社)の晩秋
http://yasounikki.exblog.jp/19390051/
2012-12-22T00:06:00+09:00
2014-02-14T18:41:31+09:00
2012-12-22T00:05:50+09:00
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源氏物語花考察(ゆかりの地)
2012.11.28 京都にて
【ならの小川の落葉情景】
【御物忌川ならの小川と合流】
【紅葉散らす】
【紅葉爛漫】
【一幅の絵の下で】
【山茶花と共に】
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【葵祭(賀茂祭)と源氏物語】
http://yasounikki.exblog.jp/19358879/
2012-12-15T23:18:00+09:00
2014-02-14T18:42:59+09:00
2012-12-15T00:27:48+09:00
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源氏物語花考察(ゆかりの地)
2012.11.28京都にて
◆【上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下賀茂神社(賀茂御祖神社)
】
「源氏物語・葵の巻」に記載の賀茂祭(葵祭)の車争い。祭の日は賀茂の斎王の行列を見るために貴族たちが一条大路に飾り立てた牛車を出して見物の場所取りをします。この場面は葵の上と六条御息所の車争い。能「葵上」や舞踊、小説になっています。
5月(旧暦は4月)酉の日に行われる賀茂祭、祭に先立ち選ばれた斎王が賀茂川で御禊を行い祭りの当日は上下両社に参拝し、以後紫野の斎院に入る。
社頭の儀は 勅使が御祭文を奏上し御幣物を奉納、平安調を偲ばせる雅びな雰囲気のなかで、神馬の引き回し、舞人による「あずまあそび」の舞が奉納される。
賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代、内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾るようになってから、この名があり現在に至ります。
【葵祭】
平安朝の優雅な古典行列は平安貴族そのままの姿で列をつくり、京都御所を出発、総勢500名以上の風雅な行列が下鴨神社を経て上賀茂神社へ向かいます。
【御禊】
葵祭は毎年5月15日に平安の昔から続く京都の祭で格調高い優雅な祭です。以来、国家的な行事として行われてきたので、わが国の祭のなかでも、数少ない王朝風俗の伝統が残されている。
『賀茂祭』または『北の祭り』とも称し、平安中期の貴族の間では単に「祭り」と言えば葵祭のことをさすほど隆盛をきわめ有名でありました。
〔お詫び〕この葵祭り見学に行ったのが、10数年前の銀塩カメラの時代、アップするにはしのびない。デジカメ撮影の機会に恵まれましたら追加更新を致したいと存じます。
「葵の巻」を簡単に・・・。
この巻は御代替わり「花宴」巻から二年後のお話です。斉院列見物に出かけた葵の上(光源氏の正妻)と六条御息所(光源氏の恋人の一人)牛車をとめる場所をめぐって争う、通称「車争い」のシーンはあまりにも有名。
閉じこもり気味だった葵の上が、みなの説得で急遽出かけることになりましたが、すでに車をとめる場所は一杯だった。(満車状態)一方、お忍びできていた六条の御息所の車を家人達が無理矢理どかそうとした為に、車争いが起き大騒ぎとなり、結果、六条の御息所の車を後方にけちらされてしまったのです。美しい光源氏(源氏物語中、光源氏が勅使を勤める)の麗姿を、見物人が絶賛する中、六条の御息所は屈辱感と葵の上へ憎しみで苦しみ始めます。
★【葵上】あおいのうえ
左大臣の娘。源氏が元服した際に結婚した正妻。あまり仲の良い夫婦ではなかった。源氏との間に夕霧を生む。しかし、その直後、六条御息所の物の怪にとりつかれ死亡する。
★【六条御息所】ろくじょうのみやすどころ
前皇太子(即位する前に死亡した為に桐壷帝が即位した。)の妻であった人源氏と関係を持つが多くの女性と関係をもつ源氏に嫉妬し、その心が物の怪となって、夕顔や葵上を死に至らせた。後に病で死亡する。
◆角田文衞説では・・・。
斎院御所のあった場所は現在の京都市上京区櫟谷七野神社のあたりに相当するという。
この御所は地名により紫野斎院、あるいは単に紫野院とも呼ばれた。 斎王はここで仏事や不浄を避ける清浄な生活を送りながら、賀茂神社や本院での祭祀に奉仕した。特に重要なのは四月酉の日の賀茂祭では、斎王はあらかじめ御禊の後上賀茂・下鴨両社に参向して祭祀を執り行った。
【下賀茂神社】2007年、春に撮影した写真です。
【斎院】
『源氏物語』には光源氏の従姉妹の朝顔斎院も登場する。歴代の斎院は文雅で名を馳せた人物が多い。また『源氏物語』は選子内親王から何か珍しい物語をと所望された中宮彰子が、紫式部に新しい作品を書くよう命じて生まれたとの伝承があり、『枕草子』にも選子内親王と中宮定子の文の贈答の場面がれるなど、宮中(とりわけ後宮)と斎院との文化交流の豊かさが伺える。賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した斎王、または斎王の御所。賀茂斎王、賀茂斎院とも称する。
※近年の斎王代は京都ゆかりの寺社・文化人・実業家などの令嬢(主に20代)が選ばれている。
この時の斎院の華麗な行列はとりわけ人気が高く、清少納言が『枕草子』で祭見物の様子を書き留めており、また紫式部も『源氏物語』「葵」の巻で名高い車争いの舞台として描いている。
巻10 『葵の巻』ふたば葵もご覧下さい↓
【双葉葵】
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源氏物語と陰陽師
http://yasounikki.exblog.jp/19324390/
2012-12-07T15:48:00+09:00
2014-02-14T18:44:05+09:00
2012-12-07T15:48:38+09:00
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源氏物語花考察(ゆかりの地)
2012.11.28京都にて
紫式部の生きる世と物語の光源氏の生きる世は、陰陽師が駆け巡る時代ミステリアスで不可解な小説でもあります。
【陰陽師】
平安時代、安部晴明は陰陽師でした。平安時代は闇が闇として残っていた時代です。人々の何割かは妖しの物の怪の存在を確実に信じていた時代でした。遠境の森や山の奥ではなく、人も鬼ももののけも同じ都の暗がりの中に、時には同じ屋根の下に息をひそめて一緒に棲んでいたのがこの時代、源氏物語の中でも代表される六条御息所の物の怪が葵の上を苦しめます。他、数え切れないほど・・・。
【安倍晴明御霊神】
安倍晴明公は幼い頃から非常に賢明な方で、特に天文暦学の道を深く極め、神道を思いのままに操る霊術を身につけられておられた。天文陰陽博士として活躍し、朱雀帝から村上、冷泉、円融、花山、一条、の六代の天皇の側近として仕えられ、数々の功績をたてられます。村上帝に仕えられておられた時には、進んで唐へ渡り、城刑山にて伯道仙人の神伝を受け継がれます。帰国後、これを元に日本独特の陰陽道を確立。 朝廷の政治、日本人のさまざまな生活の規範を決められました。今日、私達の日常生活の基準となる年中行事や、暦術、占法は皆この時に創られたのです。
晴明公は天体を移り行く星や雲の動きを観察して宮殿での異変の予知、遠方での吉凶を言い当てられ、朝廷を始め多くの人々の信望を寄せられたとされています。一条帝に仕えた寛弘2年(西暦1005年)9月 26日に85歳で亡くなっています。
晴明御霊神として祀られた後も、我が国の陰陽道の祖として広く世の中の尊敬を集めます。「晴明公にお祈りすれば、不思議な霊の利益を受ける事ができ、様々な災いから身を守り、病気や怪我が治る…」そうした評判が多くの人々に語り継がれています。
【本殿】
一番奥に晴明公が祀られている。五芒星が随所にあしらわれ独特の雰囲気に包まれています。このあたりの西陣は、応仁の乱はじめ火災には度々遭った地域でもあります。現在の本殿は、明治38年に建てられたものです。
一の鳥居動画.掛っている額に金色に輝く社紋の桔梗印が特徴的です。
(鳥居の額は、通常、神社名やお祀りしている神様の名前をいれることが多いのですが、この鳥居では社紋が入っており、全国的にも非常に珍しいものといわれています)
晴明神社は死後2年の寛弘4年(1007年)に晴明屋敷跡に創建。
【厄除桃】
陰陽道で桃は魔除、厄除けの果物と言われております。古事記、日本書紀などでも魔物を追い払う様が描かれています。(ご存じの昔話で「桃太郎」で鬼を退治できたのももこれに由来する)
【一條戻橋】
安倍晴明公とも縁深い一条戻り橋は平成7年に架け替えられ、現在も神社から南100メートルのところの堀川に架かっています。源頼光の四天王の一人で渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所としても有名です。あの世とこの世をつなぐとされた一条戻橋。現在でも「戻る」を嫌って嫁入りやお葬式の列はこの橋を渡らないのが習わしのようです。先代の橋で使われていた欄干の親柱を境内に移し、昔の風情をそのままに「一條戻橋」を再現してあります。
【晴明井】
本殿の北寄りに晴明公が念力により霊水が湧出たとも言われる井戸、晴明井です。
(病気平癒を願う人々が現在でも遠方から多数いらっしゃるそうです)水の湧きでるところに注目すると、その歳の恵方を向いており吉祥の水が得られます。恵方は毎年変わり立春の日にその向きを変えます。
【御神木】
樹齢推定300年。楠はかつて虫除けの樟脳の原料としていました。
お願い事の絵馬
【参考までに】
◆安倍晴明の時代
10世紀には陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出た。忠行・保憲は晴明に天文道、保憲の子光栄に暦道を伝え、平安末期から中世の陰陽道は天文道・暦道を完全に取り込むとともに文道の安倍氏と暦道の賀茂氏が二大宗家として独占的に支配するようになった。
明治維新後の1872年(明治5年)に至り、新政府は陰陽道を迷信として廃止させた。
現代は土御門家の開いた天社土御門神道と、高知県香美郡物部村(現在の同県香美市)に伝わる『いざなぎ流』を除けば、暦などに名残をとどめるのみであるが、神道や新宗教などに取り入れられた陰陽道の影響は宗教として存続している。
◆【陰陽師の仕事】
陰陽寮が属している中務省は天皇とその政に関する仕事を受け持つところ。陰陽寮の部門としての陰陽師の仕事は『陰陽五行』の思想を用いて災害などの有無を占ったり土地の吉凶を判断すること。
奈良から平安にかけて二回遷都が行なわれましたが、土地を選び吉凶を判断するのも陰陽師の仕事のひとつでした。
今でいう風水の知識が用いられ、占星術のようなものですが、星ばかりでなく月・大気・風や雲なども観察の対象でした。変化があれば何を意味しているのか、どういう現象が起こるのか?それが天皇や国家にどのような影響を与えるのかといった報告書を中務省に提出します。
陰陽師たちの仕事は公務だけでなく時には朝一番で貴族や官女たちの相談を受けることもありました。陰陽師が夢を凶と判断したら身を清め外出を控える物忌みに入るのです。
女流文学の『更級日記』 『蜻蛉日記』 を見ると、当時の宮廷人が夢解き・夢違えに いかに熱心だったかをうかがい知ることができます。
◆平安中期以降は・・・
律令制そのものの枠も弛んだ為、陰陽師が貴族らを個人的に占うことも。それは基本的に陰陽道に関する知識を持つ官僚のみで、民間人は陰陽道を知る事も学ぶ事も許されませんでした。
◆【陰陽師の身分】
陰陽頭は従五位。天文博士らは七位。平安時代の貴族は五位以上であり貴族でなければ昇殿は許されませんでした。安倍晴明は陰陽頭ではありませんが官位は従四位。身分は固定化されたものではなく力があれば出世する。
◆【陰陽師の出勤】
宮廷の規則にのっとり一般の中級官人と変わりなし。出勤時間は早く大内裏の諸門が開くのは夜が明けてから20分もたたない頃ですから、6月半ばなら朝の4時30分ころ、30分後には仕事開始になります。遠距離の者は暗いうちに家を出て門が開くのを待つのです。
◯∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽◯
★近年、出版された内館牧子さんの「十二単を着た悪魔」”異聞”源氏物語を拝読しました。
就活中の内定がことごとく不採用、日雇いの派遣の生活をしていた男の夢を借りて進められています。イベント「源氏物語」の設営を終えた帰途、雷に打たれた一瞬の時間に源氏の世界にトリップして光の当たらない皇妃、弘徽殿女御の陰陽師の職を得て活躍する(物語のあらすじ本があるからですが)侘びしくて、寂しくて、悲しくもあり、やりきれない笑いもありの小説です。
終盤は我に戻る。心身共に物語に入っていけるほど無我夢中になっていたのでしょう。源氏物語の原文版や墨書まで読めるほど入り込み、研究の道を志す。
意表をついて大変面白かったので、歴史に残る陰陽師(安倍晴明)を祀る神社を訪ねて見たくなり今回はコースに入れて訪ねて見ましたのでした。
〓【陰陽師】と【宿曜道】〓
今風に言えば「占い師」でしょうか。幻術師、拝み屋という言い方も出来ましょう。どれも適確なものではない様な?。陰陽師は星の相を観て人の相を観る。方位も観れば占いもし、呪詛(すそ)によって人を呪い殺すことも出来、幻術を使ったりもする。眼に見えない力、運命とか、霊魂とか、鬼とか、それらに深く通じており、そのようなあやかしを支配する技術を持っていた。
【宿曜道】
平安時代、空海をはじめとする留学僧らにより、密教の一分野として日本へもたらされた占星術の一種。密教占星術、宿曜占星術などともいう。『源氏物語』桐壺にも、主人公・光源氏が誕生した際、宿曜師にその運命を占わせる場面が出てくる。
【陰陽道】
陰陽寮で教えられていた天文道、暦道といったものの一つ。これら道の呼称は大学寮における儒学を教える明経道、律令を教える明法道等と同じ。「おんようどう」「いんようどう」とも。古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として日本で独自の発展を遂げた自然科学と呪術の体系である。
◆【陰陽五行説伝来】
5世紀から6世紀頃、陰陽五行説が仏教や儒教とともに日本に伝わり、陰陽五行説と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易といった自然の察に関わる学問、占術とあわさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられるようになりました。
当初、漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていたが、やがて朝廷に奉仕する必要から俗人が行うことが必要となり、7世紀後半頃から陰陽師があらわれ始めた。
律令制がしかれると、陰陽の技術は中務省の下に設置され陰陽寮へと組織化された。陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせた。
(令では僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられた)
平安以降は、律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて、形式化され宮廷社会での怨霊に対する御霊信仰など陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の生活に影響を与える指針となっていきます。陰陽道は宮廷社会から法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して日本独自の展開を強めていった。日本の陰陽道は、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げていく。密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受ける。
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〔紫式部と雲林院〕 巻10 【賢木の巻】
http://yasounikki.exblog.jp/19305458/
2012-12-03T19:21:00+09:00
2014-02-14T18:45:02+09:00
2012-12-03T19:20:58+09:00
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源氏物語花考察(ゆかりの地)
2012.11.28 京都にて
文中)大将の君は、宮をいと恋しう思ひきこえたまへど、「 あさましき御心のほどを、時々は、思ひ知るさまにも見せたてまつらむ」と、念じつつ過ぐしたまふに、人悪ろく、つれづれに思さるれば、 秋の野も見たまひがてら、雲林院に詣でたまへり。
意)源氏は中宮を恋しく思いながらも、どんなに御自身が冷酷であったかを反省おさせする気で引きこもっていたが、こうしていればいるほど見苦しいほど恋しかった。この気持ちを紛らそうとして、ついでに秋の花野もながめがてらに雲林院へ詣でる。
が・・・!源氏は雲林院から二条院の紫の君の身の上が心配でならないので手紙を頻繁に出している。静かに落ちついて世の中のことをお考え続けなさると、帰ることも億劫な気持ちになってしまいそうだが、姫君一人の身の上をご心配で心にかかる事なので、出家には踏み切れない。
◆〔紫式部と雲林院〕 なまって「うじい」とも呼ばれた。
かつて雲林院境内にあった大徳寺塔頭の真珠庵に「紫式部産湯の井戸」があるそうです。紫式部はこの周辺で生まれ育ったとされ、一説にはその名も、雲林院の建つ紫野に由来するともいわれています。『源氏物語』巻10帖の「賢木」文中(上記記載)に雲林院が登場する。光源氏は雲林院に参籠し天台六十巻を読み、亡き母・桐壺の更衣の兄も籠って修行している。ところから、紫式部は生涯を通じてこの雲林院に親しんでいた様子が伺える。
◆【雲林院】の案内板の文
平安時代の紫野の史跡である。この付近一帯は広大な荒野で、狩猟も行われていた。淳和天皇(在位823~833)はここに広大な離宮紫野院を造られ、度々行幸された。桜や紅葉の名所として知られ文人を交えての歌舞の宴も行われた。後に仁明天皇皇子「常康・つねやす」親王に伝えられる。貞観11年(869)に僧正遍昭を招き雲林院と呼ばれ官寺となった。寺としての雲林院は菩提講が名高い。歴史物語「大鏡」は、この菩提講で落ち合った老人の昔物語という趣向で展開する。
「源氏物語」「伊勢物語」にも雲林院の名は現れ、「古今集」以下歌枕としても有名で謡曲「雲林院」はそうした昔をしのんで作られている。
鎌倉時代には、雲林院の敷地に大徳寺が建立された。現在の観音堂は宝永4年(1707)に再建され、十一面千手観世音菩薩像、大徳寺開山大燈国師像を安置している。
「これやきく 雲の林の寺ならん 花を尋ねるこころやすめん」西行法師
京都市
京都市北区雲林院町と言うところは淳和天皇の離宮紫野院が前身、『大鏡』『栄花物語』『源氏物語』『枕草子』など、多くの文学の舞台となったところで御座います。
【雲林院観音堂】
雲林院にただ一堂のみ残された観音堂は、正面3間、側面2間で桟瓦葺宝形造の建物である。
【雲林院弁財天社】紫雲弁財天
★巻10ー【賢木の巻】簡単に
六条御息所が光源氏に見切りをつけて伊勢下向を決意して、伊勢へ引っ越す場面から始まります。
傷ついた六条御息所は娘の斎宮(=後の秋好中宮)とともに伊勢に下り、光源氏と野宮で悲しい別れがあり、始めて六条御息所と分かち合えるのですが、悲しい別れで終わります。そして、光源氏の父、桐壺帝の崩御(11/1)昨年は妻、葵の上の死去、今年の父桐壺院の崩御を体験し諒闇(りょうあん)の春は寂しく源氏は家に引きこもって暮らしている。
桐壺院が崩御された後は、政治は弘徽殿大后と[右大臣]に握られ、源氏は危うい立場になっていきます。心乱れる源氏は[藤壺中宮]に再び接近するが。藤壺は源氏の恋心を封じ東宮(後の冷泉帝)を守るために出家します。
うちひしがれた源氏は気持ちを紛らそうとして『雲林院』詣で、暫く逗留しますが、出家には踏み切れない。源氏は天台六十巻の教典を読み誦経を行ない、寺にも御誦経の御布施を立派におさせになり、紫の上の元に帰るのである。
源氏物語の雲林院の説明書きには、
紫野にある寺院『雲林院』。もと淳和天皇の離宮、仁明天皇の皇子常康親王が伝領し出家して寺院となった。村上天皇の時には勅願によって堂塔が建てられ、重んじられた寺」。物語ではそこに源氏の母君(桐壺御息所)の兄君が律師(りっし)でいる。と書いてあります。
そんな渦中、事もあろうに源氏は朧月夜の姫との密会、右大臣方の怒りをかってしまいます…。自ら招いた大ピンチから次の巻へと続きます。
アップ済みの【巻10-賢木の巻】… 悲しい別れの場所、野宮(ののみや)の風景もクリックしてご覧下さい。
巻10 【賢木の巻】
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紫式部の墓所(堀川北大路下る)
http://yasounikki.exblog.jp/19301994/
2012-12-02T23:45:00+09:00
2014-02-14T18:46:44+09:00
2012-12-02T23:45:47+09:00
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源氏物語花考察(ゆかりの地)
2012.11.27 京都堀川通りにて
震災があり、体調不調に見舞われて2年ほど出かけることが出来なかった「京都」無性に行きたくなって、思い切って急遽、出かけてきました。シーズン中なので京都市内のホテルは満室、大阪に宿を取りました。お天気に恵まれました。混み合う観光地ではありませんでしたが、行きたいと思っていたところを訪ねることが出来て本当に幸いでした。
紫式部自身の墓所の伝承地が雲林院近くにあり、彼女が生涯を通じてこの雲林院に親しんでいた様子が伺える墓所にお参りしてきました。
当時の受領階級の女性一般がそうであるように、紫式部の生没年を明確な形で伝えた記録は存在しないのですが・・・、そのため紫式部の生没年については、さまざまな状況を元に推測したさまざまな説が存在しており、定説が無い状態であるのですが・・・。
紫式部の墓が京都市北区堀川北大路下る西側にあるのです。紫式部の墓の場所については、室町時代に書かれた『源氏物語』の注釈書である「河海抄」に記されており、現在の伝承の場所と一致する。
この地に紫式部の墓が存在するという伝承は、古くは14世紀中頃の源氏物語の注釈書『河海抄』)に「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」と明記されており、15世紀後半の注釈書『花鳥余情』や、江戸時代の書物『扶桑京華志』や『山城名跡巡行志』『山州名跡志』にも記されている。
紫式部の墓はこの場所に親しんでいたと思われる雲林院の名前が源氏物語文中に出てくるのです。もしかして足げく訪ねた所だったのかも知れません?とはいえ、紫式部の名を聞けば訪ねたくなるのが、式部を尊敬する私の気持ははやるのです。どうしてもお参りしておかなくてはと言う気持が募り行って参りました。
1989年に社団法人紫式部顕彰会によって整備されており京都の観光名所の一つになっている。
式部の墓は小野篁の墓と隣接して建てられてありました。この場所は淳和天皇の離宮紫野院があり、桜や紅葉の名所として知られ、文人を交えての歌舞の宴も行われた所のようです。
故に歴史物語「大鏡」は、この菩提講で落ち合った老人の昔物語という趣向で展開し、「源氏物語」「伊勢物語」にも雲林院の名は現れ、「古今集」以下歌枕としても有名で多くの文学の舞台となったところ御座います。謡曲「雲林院」はそうした昔をしのんで作られている。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟 … 小野篁(百人一首)
◆小野篁(おののたかむら)
平安時代初期の歌人であり、役人(公務員)であり学者とも云える人物。書家の小野道風の祖父に当たり、また小野小町との関係でも祖父になるとも云われます。篁の身長は六尺二寸。180センチを超える巨漢であったそうです。一節に寄れば、日中は内裏に、夜になると冥界に行って閻魔大王に仕えたと云う逸話があります。
篁と一緒に並ぶ紫式部のお墓は愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものである。との話もあるようです。碑文にはお墓と刻んであります。
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【源氏物語-有職故実】 若紫巻、 須磨の巻他 ひいな(雛)遊び
http://yasounikki.exblog.jp/17457795/
2012-03-03T16:41:00+09:00
2014-02-14T18:49:34+09:00
2012-03-03T16:41:48+09:00
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源氏物語花考察(ゆかりの地)
2012.03.01鴻巣にて
◆巻12‐【須磨】
文中)『三月一日に出で来る巳の日、今日はかく思すことある人は御禊(みそぎ)し給ふべきと、なまさかしき人のきこゆれば、海面もゆかしうて、出で給ふ。いとおろそかにぜむじょうばかりを引きめぐらして、この国にかよひける陰陽師めして払へさせ給ふ。舟に、ことごとしき人形(ひとがた)のせて流すを見給ふに』
源氏物語、須磨の巻には、三月上巳(じようし)の日に陰陽師(おんみようじ)を召して祓を行い、その人形(ひとがた)を船に乗せて流したという記載がある。『曲水の宴』は祓いの遊びの宴でもあったのでしょう。この雛流しの起源とされる人形(ひとがた)流しは源氏物語にみるのです。
源氏物語では、『ひいな(雛)遊び』が、数巻に出て来ます。
◆巻5‐【若紫】
光源氏が北山で若紫(紫の上)を見つけて連れ出すくだりに、不安におののいている若紫にこう言いました。
『いざ給えよ、をかしき絵など多く雛(ひいな)あそびなどする所に』・・・・源氏君
意) さあ、いらっしゃい。美しい絵などがたくさんあって、お雛様遊びなんかのよくできる私の家へ」お人形遊びなどできる所に。父宮さまのお使いとして参ったのですよ。
『雛(ひいな)遊びにも、絵書い給ふにも源氏の君と作り出でて清らなる衣着せ、かしづき給ふ』
源氏と若紫は一緒にひいな遊びをするのである。。
『雛(ひいな)など、わざと、屋ども作り続けてもろともに遊びつつ、こよなきもの思ひの紛らわしなり』
お人形なども、特別に御殿をいくつも造り並べて、源氏は藤壷の中宮(義母)恋しさに、藤壷に面影の似た少女を手元に引き取り、藤壺に会えないやるせなさを、幼い若紫と一緒に遊んでは、この上ない憂さ晴らしをしているのです。この巻で源氏は、紫の君に心慰められ、 紫の君も源氏を慕うようになっていくのです。
◆巻6‐【末摘花】
『例のもろともに ひいな遊び し給ふ。絵など書きて、色どり給ふ。よろづに、いとをかしう、すさび散らし給ひけり。我も書き添へ給ふ。髪いと長き女を書き給ひて、鼻に紅をつけて見給ふに、かたに書き手も、見ま憂きさましたり』
◆巻7‐【紅葉賀】
『いつしか雛(ひいな)おしすゑて、そそきゐ給へる。三尺の御厨子一具に、品々しつらひすゑて、また小さき屋ども作り集めて、たてまつり給へるを、所せきまで遊びひろげ給へり』
◆巻25‐【蛍の巻】
『(明石姫)まだいはけたる御雛(ひいな)遊びなどのけはひの見ゆれば、かの人(雲井の雁)のもろともに遊びて過ぐしし年月の、まづ思ひ出でらるれば、雛の殿の宮仕へ、いとよくしたまひて、をりをりにうちしおれたまひけり』
夕霧が明石姫と雛遊びをしながら、幼馴染の雲井の雁を思い出して涙ぐむ場面の描写です。
① 『建武年中行事』にも、三月節供の「御燈(みあかし)」行事には「人形」に饗応(きようおう)したあと、それを祓え送るとある。
② 三月上巳の祓行事は、三月節供の雛祭の源流を知る手掛りで、本来、雛祭の人形の原形は、「罪穢(つみけがれ)」をつけて送り流す「撫物(なでもの)」であったという山東京伝(さんとうきようでん)の指摘は的を射ていたように思える。
③桃酒や曲水宴を伴う「上巳」の行事は中国陰陽道の習俗の移入であるが、水辺の祓行事が先行習俗として日本にあって、その習合行事として「上巳の祓行事」が生じ、その「撫物」が雛祭の主役にやがてなっていきました。
④ そして、工芸技術の進歩で雛人形の製作に巧緻(こうち)を競うに至り、それを保存愛玩しながら連年祭ることにもなり、「流し雛」の古意はやがて忘却されるに至って行きました。
現代では 「桃の節供」
3月3日雛祭(節句)に雛人形を飾り桃花や雛菓子を供えて白酒で祝う習俗をいう。
婦女子主体の祭りで男子の5月節供と対置されているが、雛人形主体の節供習俗の歴史は新しい。
江戸時代初頭(1630ころ)に宮廷や幕府で3月節供に雛人形にかかわる行事があったと記録があり、寛文年間以降に雛祭の形が定着したとみられる。以後の雛祭は工芸品としての雛人形の生成発達と関連してしだいに華美な形になり、都市から農村へと波及していく一般化は明治以降である。
江戸時代初期の雛飾りは平壇・立雛の形が主だった。
江戸時代中期になって、紙雛から布で正装した「すわり雛」となり、その後精巧な土焼きの衣装人形の出現で華麗になり重ね壇に高貴な夫婦を表わした1対の内裏雛形式をとって以来、三人官女、五人囃子、随身、衛士などを置き、これに屏風、蒔絵道具、高坏、膳、ぼんぼり、桜と橘をはじめ菱餅、白酒などを供えるという形式が固定していきます。
江戸時代後期には次第に時代の好みを反映して素朴な立ち雛から室町雛、寛永雛、享保雛など
種々なものが作られ、末期には頭や手に象牙を用いた木目込みの贅沢なものも現れた。雛祭が盛大になるにつれて豪華になっていく。
享保雛は、サイズも40cmから60cmくらいと巨大なものも作られるようになり、女雛は唐衣に裳姿、天冠を付け檜扇を持ち、男雛は束帯様装束で白平絹袴をつけ、烏帽子をかぶって笏を持っていました。巨大なものになると等身大のものまであったそうです。
明治以降は商店の雛人形売り出しが推し進められ、新生の女児に雛人形を贈る風習へと広がって今日に至ります。
一方、こうした都市的雛祭とは別趣の古俗をいまに伝える地方もいくつかあるようです。鳥取市周辺の「流し雛」はとくに注目され「紙雛」を祭ったすえ、3月3日夕方、それを桟俵にのせて供物とともに川に流し去る。「祓」の人形送りである。
また、関東の村々には三月節供に古雛を川へ流し送るといって、白酒を供えて婦人・子供が野外にそれを祭り、泣いて別れを惜しむ風習があったとされる。さらに、三月節供のころ、磯遊び山あがり花見等、春なぐさみなどといって、子供たちが野外に出て終日遊び共同飲食する風習も広く各地にみられる。
長野県南部の「三月場」千葉県の「野あそび」のように雛人形を野外に据えて遊ばせ、その別離を惜しむ風習の伝承は注目されます。
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【平安王朝の美】 … 京都風俗博物館
http://yasounikki.exblog.jp/14087213/
2011-01-30T22:24:00+09:00
2014-02-14T18:50:59+09:00
2011-01-30T22:24:57+09:00
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源氏物語花考察(ゆかりの地)
風俗博物館は平成22年12月1日より約1年半休館になっています。
昨年訪ねました時のお話しでは、23年4月~24年1月迄、町をあげての本願寺の特別記念事業の『 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌 』の法要(1年間行われる)
この期間は風俗博物館もご奉仕するためお休みとなるのだそうです。
閉館間際の風俗博物館を訪ねることが出来ました。尚、休館中は「京都アスニー」にて引き続き出張展示をするとのことです。
精巧に作られた衣装や人形の撮影が出来ましたもののみアップ致します。(撮影可能な博物館でした)
【西本願寺&東本願寺】も参照下さい。
【平安王朝の美】
光源氏は、広大な邸を四町に区切り、春夏秋冬に配した各町に、ゆかりある女性を主人として住まわせました。
【光源氏】
◆ 東南(辰巳)=春の町の東対には紫上
こうばいのにほひ紫の上、紅梅のいといたく文浮きたるに葡萄染の御小袿今様(こうちきいまよう・・・。
◆西面= 正妻女三宮(今回は画像なし)
◆東北(丑寅)= 夏の町の東対には、花散里 養女として引き取られた玉鬘
くれなゐのうすやうの花散里。「浅縹(あさきはなだ)の海賦(かいふ)の文織様なまめきたれど匂ひやかならぬに いと濃き掻練具しては夏の御方」・・・ 。
◆ 西南(未申)=秋の町には 秋好中宮(六条御息所の娘)(今回は画像なし)
◆西北(戌亥)= 冬の町 には 明石の君
むらさきのうすやうの明石上。「梅の折枝蝶鳥飛びちがひ 唐(から)めきたる白き浮文に 濃きがつややかなる具して明石の御方に 思ひやりけだかきをうへは目ざましう見給ふ」・・・
【女房達の仕事】
◆唐衣裳(からぎぬも)女房装束十二単
女房装束とは、朝廷に出仕する高位女官の奉仕姿をいう。袴に単重ね袿(うちき)に裳(も)と唐衣(からぎぬ)を着けた姿を唐衣裳と称し、主上の不在時は唐衣ばかりは略することも許されたが、裳は必ず着けねばならなかった。平安中期、内に着込める重ね袿の風が極めて華美となって多数枚を着るようになるが、平安末期から鎌倉時代には重ね袿を五領までとする「五衣(いつつぎぬ)の制」が定められる。この五衣の上に、砧打ちをした打衣(うちぎぬ)と二陪(ふたえ)織物の表着を着込め、さらに張袴(はりばかま)を穿いて「物具(もののぐ)」と称して晴の正装とした。
後世、女官の朝服姿を十二単と一般に呼ぶが、元来の十二単とは袿を幾枚も着重ねた装束の表現であり、唐衣や裳を着けない寛いだ袿姿を指していたと思われる。
◆【法華八講】
11月は法華八講の場面が展示されていました。源氏物語のの中にも法華八講が出て参ります。法華八講は通常4~5日間かけて営まれる大掛かりな法会です。
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【源氏物語・旅紀行】 巻5 『若紫』 出逢いの大雲寺
http://yasounikki.exblog.jp/9141300/
2008-12-05T11:30:00+09:00
2014-02-14T18:52:44+09:00
2008-12-05T11:31:10+09:00
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源氏物語花考察(ゆかりの地)
H 20.11.19 京都大雲寺にて
光源氏と若紫の出逢いの地と言われる北山のお寺を訪ねてみました。
「なにがし寺」は大雲寺か又は鞍馬寺?。長い間、議論されてきましたが、歴史学者の角田文衞氏(【廬山寺】2006-05-17 アップ済み)が「北山のなにがし寺」は『若紫抄 : 若き日の紫式部』1968年にて若紫の巻のモデルとして繰り返し主張してこられたのが、この大雲寺です。
若紫の巻に「寺のさまもいとあはれなり」と記された>「なにがし寺」を現在の光景から思い描くのは困難で御座いましたが、今はその姿を留めていない平安時代の大寺院を偲びつつ、現在の大雲寺の様子をご紹介します。
かすかに往時をしのぶお庭の池ですが・・・水も引かれていなくて・・・。
大雲寺は紫式部の曽祖父・藤原兼輔の建立した寺であることから大雲寺の説が強いようですが。今では見る影も御座いませんでした。が、当時は大雲寺は園城寺の別院として建立された寺門派の寺院で、しばしば対立する山門派との抗争の舞台となりました。天元四[981]年に余慶が法性寺座主に任命されたことに端を発した山門派との対立により、余慶及びその門徒数百人が大雲寺に移り住んだ(と『大日本史料』に書かれています。
昭和60年6月、人災によって旧本堂(寛永年間=約350年前に建立された)は消滅してしまいました。しかし、千有余年続く観音信仰が途絶えた訳ではなく、旧境内地に結ばれた堂宇では脈々と法灯が護持されています。このような法難は今回に始まった訳ではなく、古く応仁の乱や戦国時代の兵乱による焼失、信長による焼き討ち、落雷、失火等で幾度と無く伽藍は消滅と再興を繰り返してきたお寺のようです。
観光ガイドなどに大雲寺が廃寺になったかのように書かれている記事がありますが「どっこい!生きてます! 大雲寺」と大雲寺のホームページにあります。
★若紫の出逢いの場面 ・・・ 【簡単に物語】
源氏君は熱病を患い加持祈祷ため評判の聖がいる京都北山にお出かけになりました。その甲斐あり熱も下がり発作も治まりましたので、御邸の辺りをお散歩の途中、ある家の小柴垣から様子を垣間見なさいますと部屋に持仏を置き尼が苦しそうに読経しておりました。側で白い衣に山吹色の着物を重ね着た十歳くらいの愛らし少女、髪は扇を広げたようにゆらゆらと美しく赤い顔で泣いてる女の子が気になります。
慕い続けている藤壷の宮にとても良く似た少女だったからです。この少女を引き取りたい…衝動に駆られます。あまりにも有名な場面の舞台がこの大雲寺のようで御座います。実はこの少女は兵部卿(藤壷の兄)の姫君で幼くして母を亡くし尼君に預けられていたのです。事もあろうに少女を手元に引き取り恋しい人を想いながら、御心のままに理想的な女性に育てたい???と熱望(源氏の我欲)。
帰京して相変わらず冷ややかな正妻「葵の上」にあきたらない源氏は、病気で宮中から里帰りしていた藤壷の宮に「この機会にこそお逢いしたい……」と、王命婦(藤壺付きの女房)に何度も頼みこみ、ついに源氏は藤壷の宮とあやまちを繰り返します。
ある日、強引な源氏に藤壷の宮は「もう、終わりにしよう……」と堅く決心なさいます。この道ならぬ逢瀬に思い乱れるご様子は誠に畏れ多いことでございました。
七月に入り・・・
大層暑い頃、藤壷の宮は床に伏せたままお起きになりません。この頃になると人目にもはっきりご懐妊と分かるようになり、運命のいたずらを怖ろしく、思い悩んでおられました。宮様は思い当たるふしがありますので、ご自分の罪に戦きお苦しみの日々を過ごしていました。
やがて・・・
内裏に戻られた藤壷の宮、帝は ご懐妊された藤壷の宮へのご寵愛がますます募られご気分のすぐれぬ折には藤壺をお慰めしようと、暇なく源氏の君をお呼びになり、お琴や笛など様々に奏でさせなさいました。源氏はおののく自分の気持を抑えながら・・・、忍びがたい感情が態度にでてしまう折など藤壷の宮も、すげなく拒む態度を取りながらも源氏君を愛しく想い続けているのです。
そして、秋の夕べは心のやり場がないほどに藤壷の宮への想いが募るばかりで北山で見つけた藤壷と縁続きの少女を二条院に引き取りたいという身勝手な気持が一層高まるのです。
☆~手に摘みて いつしかも見む紫の 根に通ひける野辺の若草~☆
初冬になり・・・
北山では尼君が空しく亡くなられました。藤壷の面影を宿すあの少女は、頼る人もなく悲しく過ごしています。ある日のこと父の兵部卿がご自邸に引き取ろうとした前夜、源氏は、まだ眠っている少女を抱いて御車に乗せて密かに二条院に連れさるのです。
日が経つにつれ姫君は後親の源氏に慣れ慕うようになりました。源氏が公務からお帰りの時は真っ先にお出迎え、懐に抱かれても少しも恥ずかしいともお思いにならず、本当に可愛らしい遊び相手のようでした。「この姫君は本当に大切な娘……」と心からいとおしくお思い大層可愛がりました。
★☆★☆★
『若紫の巻』は、源氏18歳の春のこと。
現代の我々にはとても考えが及ばない事を企てる。幼女を強引に連れ去り((現代では誘拐犯))この子を気長に理想の女性に育て自分の妻にしようというのです。物語では、その幼女こそが、後の物語のヒロインともなる「紫の上」なのです。
その一方で、性懲りもなく、あこがれの藤壷の宮と密会し懐妊させたりもします。なんとも身勝手で傲慢な男???「色好み」「プレーボーイ」のイメージが濃い若い頃の源氏の姿であります。]]>
【源氏物語の1000年 & あこがれの王朝ロマン】
http://yasounikki.exblog.jp/8868746/
2008-10-31T23:17:00+09:00
2014-02-14T18:55:14+09:00
2008-10-31T23:18:08+09:00
hime-teru
源氏物語花考察(ゆかりの地)
H 20,10,29 横浜美術館
何処の美術館でも最近は写真は不可。作品保護のために仕方ありませんが・・・。入り口前の説明書きまでカメラを向ける事が出来ないのは、いき過ぎだといつも思います。照明も実に暗く、折角の字も判読に苦しみます。また、人数制限しているようでも、中の人数をだいたいでも把握出来ないのでしょうか?混みすぎてゆっくり見られないのが日本の美術館です。ルーブル美術館など、堂々と模写をしている人がいたり撮影が出来たり・・・。とても開放的なのが心に残っています。日本人は知的好奇心旺盛な方が多く、芸術鑑賞者がそれだけ多いのかも知れませんね。そのようなわけで、残念ですが「源氏絵」の写真はアップできませんが・・・。
【源氏絵】
紫式部にまつわる絵画を中心に日本各地から集められた豪華絢爛な作品や源氏物語の伝承や受容の諸相を写本や刊本の紹介。何よりも現代の印刷技術の発展により幅広い階層のの人の手による雅俗両様の多彩な「源氏絵」が数多展示してあり大変見応えがありました。
ー 図録の表紙をスキャンしたものです ー
私など、写本の解読など何行も読まないうちに音を上げてしまいますが、幸いなことに現代に入って戦前は与謝野源氏、谷崎源氏の現代語訳の名訳を基礎に、近代では私が大ファンの円地文子源氏、田辺聖子、瀬戸内寂聴、そして、橋本治の意訳小説、大和和紀の漫画源氏(デッサン最高)どれも身近な文学作品として物語の魅力に触れることが出来るようになり、私のような者でも物語の醍醐味を楽しめるようになりましたことは嬉しいことです。
ー 美術館の全景 ー
家康も秀吉もこの源氏物語の講義を聞き、最近では勝海舟も・・・のニュースでした。そして、今では、英語、フランス、ロシア、ハングル、イタリア、チェコ訳なども出版されていると言うのも不思議な思いである。人々の生き方は万国共通なのでしょうか?
ー 美術館の中から外を見る ー
国宝(源氏物語絵巻)は目を見張るものがありますが、読み継がれてきた長い歴史の中で美術の世界を醸しだし、延々と今日まで、物語を想像しながら描かれた絵は現代人への刺激となって心に残ります。源氏文化が1千年も広く深く、人々の生活の中に取り入れられて、今なお息づいていることに今更ながら驚かされます。歌麿や広重の浮世絵風源氏も時代と共にお顔や衣装も変化に富み”にやり”と口元がほころぶ絵にも遭遇し、とても楽しかったです。
新しい美術館のフロアはユッタリととても近代的。横にはランドマークタワー。みなとみらいの中心地。しかし、回りはまだ空き地、ススキやセイダカ泡立ち草と高層ビルとアンバランスが何と面白い風景を演出していました。工事中では何が出来るのでしょう。一大ハイテク都市になりそうです。次回は横浜の夕景をと思っています。]]>
源氏物語 & 百段階段 in 目黒雅叙園
http://yasounikki.exblog.jp/8547816/
2008-08-31T23:16:00+09:00
2014-02-14T18:56:42+09:00
2008-08-31T23:16:57+09:00
hime-teru
源氏物語花考察(ゆかりの地)
撮影はH20、6、5に目黒雅叙園にて撮影したものです。
源氏千年のイベントの『源氏物語&百段階段』を期間終了直後に急いで見に行って来たのですが・・・・。建物に入ると同時に全てのコーナー(場外でも)は撮影禁止。辻村寿三郎氏の人形の世界は素晴らしいものでしたが、檜の階段の7つの部屋の人形の展示は、源氏の世界が全てではなく源氏ファンの一人としては心が癒えないイベントでした。
写真は行ってきましたと言うだけの証しですが・・・
映画の衣装も展示されていましたが、用意してある別の衣装を着てのみ撮影(有料)は可能だが展示の衣装は撮影禁止。これで1500円とは興ざめで疲れて帰って来ました。
↑建物の正面に飾り付けてある人形は源氏の世界ではありません。なぜか?人形の前隅に小さな字で撮影禁止のマークです。殆どの人が撮影してましたが撮影してから気が付くのです。受付の花の隣(つまりは会場の外)なのでマークに気づく人は少なく紛らわしい展示会場でした。で、私も撮影してしまいました~。すみませ~ん。
昭和の竜宮城の立派なお部屋を見に行ったようなもの。このお部屋や階段に、どのように源氏物語の世界を表現されているのか!と、わくわくしながら見学にいったのですが・・・・・。期待を裏切られ帰って来ました。源氏千年のイベントとしては見る人によっては魅力半減のイベントに思ったのは私だけかも知れませんが。
↓下記の写真は通常レストランに行く回廊の両側に源氏の雰囲気が設えてありましたので撮影してきました。
☆雅叙園の中の庭の散策と一杯のコーヒーは満足致しました。
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【源氏物語・千年紀・2008】 武生編ー歌碑の数々(3)
http://yasounikki.exblog.jp/8228007/
2008-07-01T17:50:00+09:00
2014-02-14T18:59:38+09:00
2008-07-01T17:51:08+09:00
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源氏物語花考察(ゆかりの地)
〓紫式部公園内〓
公園の『紫式部像』の背後には、それを取り囲むかのように谷崎潤一郎や円地文子揮毫の紫式部歌碑や顕彰碑が建てられている。
〓身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる〓
【紫式部詠・円地文子揮毫 昭和61年建立】
◆宮仕えに出ても、わが身の憂さはいつまでも心の中についてきて、今宮中であれこれと心が幾重にも乱れることだ。
★一条天皇の中宮彰子のもとに宮仕えに出たときに詠んだ歌。これまでの境遇と一変した宮中のなかに身をおいて思うことの多い心のうちを詠んだものです
〓国府(武生)での紫式部〓
〓こゝにかく日野の杉むら埋む雪小塩(をしほ)の松に今日やまがへる〓
【紫式部詠・谷崎潤一郎揮毫 昭和33年建立】
◆式部の国府(武生)での様子を偲ばせる和歌が、『紫式部集』の中にはいくつかあります。目の前の日野山に降り積もる雪を眺めながらも心は恋しい都を詠んだ歌。
★この地でこのように日野山の杉木立を埋めるように降っている雪。都の小塩山の松にも今日は雪が降り乱れているのでしょうか。
◎武生で迎えた初めての冬、降り積もる雪の多さに驚きながら都への思い、都と地方の違いを松と杉・雪の描写で見事に対比させている。もしかして、式部自身の作なのかもしれません。歌枕である小塩山の上品な雪景色を思い描くことで、目の前に降る国府(武生)の雪の重々しさ歌にしたのでは?と思います。
★降り積み手ていとむつかしき雪をかき捨てて山のやうにしなしたるに人々登りてなおこれ出でて見給へといへば
〓ふる里に帰る山路のそれならば心や行(ゆく)とゆきも見てまし〓
◆庭に降り積もった雪で作った雪山で人々が少しでも式部の気持ちを晴らそうと声をかけてくれるのに、都に帰る途中の「かへる山」の雪ならば、心も晴れ、出ていって見るでしょう・・・!。紫式部は、たいそうそっけないことばでそれを断ります。
『都に雪が降れば趣向をこらして「雪山作り」を行い、雪を楽しむのが当時の都の貴族の習慣であったようですが、越前ではじめて味わった本格的な雪の様子は、彼女にとっては重苦しいだけのものであって、とても「楽しむ」といった感じではなかったのでしょうね。』
『紫式部集』からイメージできる国府(武生)での紫式部は、あまりこの地での生活を楽しんでいるようには見えませんね。当時の越前の国が、外国との関係においてかなり重要な役割を果たし、長徳元年(995年)9月に宋人が漂着し、越前の国で応対したという記録があり、式部がそれに興味を抱かないはずはなかったでしょう。それゆえ、都を離れ、越前下向は一度だけであったことを考えれば、国府(武生)での生活が式部の意識にさまざまな意味で影響を与えたことは紛れなき事。確かです。後に『源氏物語』に描かれているいくつかのエピソードを垣間見ると、この越前での経験が強く反映されて書かれている様な気が致します。
式部が越前から都にもどったのは、長徳3年(997年)の晩秋から初冬(一説には長徳4年春)父を残して単独で帰京でした。式部が帰京を急いだ背後には宣孝の執拗なアタックがありました。乗り気でなかった彼女は何故?心が傾いていったのでしょうか?。(宣孝は式部よりも二十歳ほど年上で、先妻との間にはすでに子供が数人) 『二心なし』 という決定的な言葉に気持ちが動いたのでしょうか?当時23歳(今で言えば30過ぎ)式部も普通の女性であったことに共鳴を覚えます。
藤原宣孝への贈答歌
〓春なれど白嶺の深雪いや積もり解くべき程のいつとなき哉〓
〓【紫式部歌碑 清水好子 選 】〓
◆春にはなりましたが、こちらの白山の雪はますます積もって、いつ解けるものかわかりません。
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【旅の感想】
紫式部が暮らした平安京の建築物や武生での館は大かたが焼けてしまって、ほとんど目にすることができません。そんな中、当時をしのぶことができるのは、地理や自然の風景や草花を通じてでしょうか?。
現実の紫式部がその場所にどう関わったか?源氏物語の中に、この地をどう取り込みいかしているのか?を想像しながら町を歩くと、目の前に紫式部が等身大で感じられる様な♪僅かな感情が新鮮な旅にしてくれました。
◆???◆
今年は源氏物語が書かれてから千年、いろんなところで記念行事が開催されている。それにあやかって出版物も目白押し。源氏物語と銘打てば中身はどうであれ売れる?。次々と便乗組みも・・・・。紫式部が生きていたら・・・膨大な印税を手にしていたことでしょう(*^_^*)。
源氏物語は広く深く大きな未開の海のようなもの、潜っては「こうだ!ああだ!」と多くの人々の懐を?潤い続けています(^o^)。はしたなく横道に逸れました。m(_ _)m
番外(紫式部の衣装は越前の和紙で出来ています
日本では一年間に約8万点を越す出版物が発刊されている。1990年ごろはまだその半分くらいでしたから、この20年で2倍に増えている。毎日数百点の雑誌が出て本の洪水が氾濫状態。新刊書はすぐに古本になり、読者の目にふれる機会もないまま消えていく本の方が多いのではないでしょうか?
ベストセラー本が出ると二番煎じの似たような本がわっと出る。馬鹿の次は品格、新刊書店に行っても目が廻る状態です。私は応援したい作家の本しか手に取らないようにしています。]]>
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