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〓撞球今昔〓

                        ★… 【 一行三昧 】  町田プロの アーティスティックの歩み & 継承 …★

アーティスティックに入られた経緯(キッカケ)もお話し下さいました。町田氏の回想は日本のアーティスティックの回想録でもあります。
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私が幼少の時に、私の父が曲球が好きであったことと、よくお店でお客さんがビリヤードに興味を持ってくれるようにと、アトラクション的に見せていまして、それをいつも傍で見ていて子供の私も興味を持つようになりました。

父が全日本四ッ球選手権で第5位に入賞した時、試合終了後に、上位5位までのプレイヤーが曲球を順番に披露することになり、その時はかなり上手く行ったと言う話に聞いたことがあります。当時はアマチュアプレイヤーが、公的に曲球を披露するのは珍しかったのではないかと思います。
 
件の状況の中で、父の目を盗んで私はマッセやジャンプショットなどを練習して、よくラシャを傷つけたり、将又、ジャンプショットで、お店に置いてあった金魚が泳いでいる水槽を割ってしまったり…大変な事になり、当然、父に大変な剣幕で怒られた思い出も甦ります。無鉄砲に突進する私ですから、当時の父には将来の私の姿など想像もつかなかったことでしょう。
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私が初めてコーナーで4回以上入れるマッセの 「 ジミ― 」 を成功させたのは小学3年生の時でした。当時はチビでしたので、顔の位置と球の位置がやたらと近かったのを今でも憶えています。

ちなみに、父がやっていた曲球を見ていたお客さんの中に当時、初心者で高校生だった島田暁夫プロがいたそうです。島田さんはその時が切っ掛けでビリヤードに興味を持ち、ビリヤードを本格的に始めるようになったそうです。父は当初、その大言壮語の言葉に驚いたようすだったようだが、その後、島田プロ本人に直接聞いてました。間違いなく本当の話だったという事を確認して驚かされました。

その後、島田プロは全日本3C選手権で2度優勝、全日本アーティスティック選手権にも優勝、そしてビリヤードがアジアンゲームスに初めて公式競技として行なわれた時に、島田プロはスリークッション男子シングルスにおいて最大のライバルの韓国勢を破り、見事、金メダルを獲得しました。
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人の縁というものは不思議なものですね。
2010アジアンドゲーム(ハノイ)東アジア競技大会(香港)にてメダル獲得代表選手への報奨金授与式の記念写真(右より、梅田選手、町田選手、森選手)
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師の小林先生と記念写真
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後に、私が20才の時に小林先生に誘われて、先生が出場していた 「世界五種目選手権」 の観戦、及び、「 小林伸明ヨーロッパエキジビションツアー 」 の付き添いなど、オランダ・ベルギーなどのヨーロッパ研修旅行に私は約1ヶ月程に渡って行ってきました。

【クールマンとの出会い】
初めての外国旅行でしたが、その時に4日間に渡る世界選手権を観戦し、小林先生のエキジビションを見学、また、クールマン・ディリス・バンブラハトなどの世界の超一流プレイヤーとの競演もありました。その時に一度だけ、そういったエキジビションの前座のゲームを私も勤めさせて頂いたこともあります。

また、クールマンの家を訪問し、食事をご馳走になったり、家の中に設置してあるテーブルで目の前でクールマンがプレイをしてくれて、直接私にストロークのアドバイスなどもして戴きました。そしてクールマン・スタイラースの曲球ショーのビデオの上映会があり、初めて世界トップの曲球を見ました。更にその後で、エキジビションでスタイラースの曲球を実際に目の前でも見ました、やはり本物は凄い迫力でした。
その時にスタイラースはスリークッションのエキジビションで、小林先生に堂々の貫禄で勝利し、スリーでもヨーロッパチャンピオンの実績を持つ超一流のトッププレイヤーであることを知らされました。

その旅行中で、当時のアーティスティックのヨーロッパチャンピオン、ハンス・ヤガ―選手の家を訪問した時に彼のビリヤードルームに行くと、アーティスティック専用テーブルがあり色々なキューの種類や道具があって目の前でプレイも見せてくれて、小林先生とハンス選手で次々と一緒にアーティスティックプレイを練習していました。

当時のアーティスティック・曲球のプレイは、まだ象牙球で行なわれておりました。当時は 「 アーティスティック・曲球は象牙球 」 というのは専門のプレイヤーでは常識でした。
その時の、稀にも見るような内容に富んだ大旅行で、私がアーティスティックに対して特別な想いを持つようになった次第です。旅行から帰国後の直後に、小林先生が新大久保に「 ビリヤード小林 」 を開店することになり、その時に私が弟子入りすることになりました。
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悔しかった思い
日本人がアーティスティックの世界選手権に初めて出場したのは、1985年オランダのスルイスで開催された時で住吉大海選手が最初でした。
その頃、まだ全日本アーティスティックがまだ行なわれていない時代で、世界大会への日本代表の方法は、てっきり国内予選で行なわれるものと、私は思っておりましたが、実際には予選は行なわれず、協会と選手会の推薦で住吉選手が行くことになったのです。

当時、やる気満々で準備もしていた私はこれには大変不服がありましたので、一応異議を唱えたのですが、協会・選手会のトップの役員数名から、 「今回だけは我慢するように」と無理やり説得され、まだまだ若手だった私は渋々承諾せざるを得なくなり、余儀なく苦汁を飲む想いをすることになりました。その時の悔しさは今でも忘れません。その時の住吉選手の世界大会の結果は出場者10人中10位の最下位でした。しかも、9位とのスコアは大差がついていました、結果を聞いて私の悔しさは倍増です。

翌年、ようやく、第1回の全日本アーティスティック選手権が開催される事になり、果たして誰が第1回のチャンピオンになるのか?当時ビリヤード界の話題になり注目されました。まず、関東大会の決勝の前に予選があり、それは30種目のショートゲームでした。気合満々の私が2位の住吉選手以をダブルスコアで引き離して1着で通過しました。その時には小林先生も参加していましたが、私に3倍のスコアの差をつけられ、その後の先生は、2度と出場されず、その試合が小林先生の最初で最後のアーティスティック競技の参加となってしまいました。

ところがです、決勝に行ったら対戦方式でトーナメント制の8種目での超短距離一発勝負、私はベスト4で、住吉選手に惜敗してしまいました。ちなみにその時の関東大会の優勝は新井達雄選手でした。(勝負の世界は厳しいものです
ですが、同じ年に青山円形劇場で第1回の全日本選手権が開催され、予選は12種目、ベスト4から8種目マッチもまた超短距離で行なわれましたが、今度は住吉選手にも勝ち、念願の全日本を制覇する事になりました。
☆★ちなみに、大会では、まともな象牙球を持っている選手が少なく不公平という理由で、第1回大会はプラスチック球で行なわれていました。

【世界大会での苦労話】
私が初めてアーティスティックの世界選手権に出場する事になった時に象牙球はどうしていたのか?。

まず、真球に近いなるべく正確な象牙球で練習をしなくてはいけなかったので、父の持っていた昔の『大球の象牙球』を分けて貰い、それを「球クリ」 に出さなくてはならなかったのですが、すでに当時は「球クリ屋」さんは皆無、困った私は人伝に昔、球クリをやっていたという淡路亭というビリヤードメーカーの職人さんを訪ねました。その人は当時はキュー製造の高齢になる職人さんで、 今はやっていないし専用のゲージが付いている 球クリの機械が無いんだよ!と言われ、私は肩を落とし落胆
様子を察して、職人さんが 仕方ない!キューを作る旋盤を利用してやってみるか?その代わり出来が悪かったらゴメンなさい、だよ!? 」と言って、4個の球をなんとか引き受けてくれました。出来上がった時、”ちょっと満足できないけど、まあまあの出来だし使えると思うよ”と言ってくれまして、これで安心して練習に打ち込められる準備が整いました。

それから世界大会までの約1ヶ月半の間、ハードトレーニングに精を出しました。初めての世界選手権に出れる事になったので、それに出れるだけで嬉しくて、睡眠時間を削って、どれだけハードにこなしていても気持ちが明るく、自分としては何の苦にも思いませんでした。
そして、メキシコ大会に無欲で挑んで行った若い私は、初出場で幸運にもあのスタイラースの次で第2位に入賞し 「 世界を驚かせた日本人 」 として当時の向こうの新聞に載ることになりました。
(まあ、一番驚いていたのは当時の私の父だったようでしたが)

ちなみに会場で使用された象牙球は、明らかにやや狂いが出ていて、だいぶコースがそれたりして、当たっている筈のコースが外れたり、逆に当っていないコースなのに当ったりで、ヨーロッパの上位の選手達はかなり苦しんでいたようです。
一方、私は、普段の練習も同じ様な象牙球で撞いていましたので、あまり気になりませんでした。
そのせいか、ボールのコースの反れ方もある程度読めていたので、それが良い結果を生んだようでした。

世界に出て行けば、そこに”何があるのか”は解かりません。

日本のアーティスティックの継承
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現在、全日本アーティスティック選手権の上位で活躍しているメンバーの界、渡辺元、小林英明、各プロ、アマチュアでは、松山竜、井関、といったメンバーがいますが、小林先生の息子の小林英明は私の店に20年ほど前に1年間ほど働いていて、彼はその間にアーティスティックを憶えました。その小林英明は渡辺元にアーティスティックを教えましたので、渡辺君は私の孫弟子のようなものです。
界プロは、やはり14年前に私の店で2年間働き、アーティスティックの基本を憶えました。松山竜、井関、といったメンバーも元々私の店でアーティスティックを憶えた人達なので、ほとんど私が教えてきた人間ということになります。
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こうして時代は引き継がれ移り行く、といった所なのでしょうか。

【雑感】
5回に渡り「撞球の今昔」の記載、町田様からたくさんの事を教わりました。大変、勉強になりました。
その道を究められた町田様ならではの、ビリヤードへの思い、そして、あまりある体験談、貴重なお話しは次へのステップとなりましょう。
スポーツも芸術も文学も、物事の本質や真相を深く追求すればするほど、何処までも奥が深く、枝葉が幾重にも広がり、未知の世界は限りなく続きます。知る喜びは大きな感動と感謝に繋がります。町田様、そして、写真を提供下さったYさんに心よりお礼を申し上げます。ありがとう御座いました。

また、このブログがビリヤード競技を楽しまれている方々の、お目に止まり、せめてもの応援歌になれば幸いで御座います。技術の緻密さや戦術を競うメンタルスポーツですが、競技スポーツとしてだけでなく、生涯スポーツとして、町田氏を筆頭にプロ、アマ問わずビリヤード競技の継承に使命感を持って伝え引き継がれて行かれることを心から願って止みません。

写真の提供を頂いたYさんのサイトも必見です。(撮り続ける忍耐力には敬服致します)
 【ビリヤード写真書庫】
by hime-teru | 2012-02-14 23:31 | 撞球 | Trackback | Comments(2)

〓撞球今昔〓

                       ★… 【 一行三昧 】 … 『町田正』 … 経験大要論 …★

経験は自己を豊かにすると申します。才能とパワーの陰には成し遂げる努力と技術と忍耐があります。道をきわめた人は、頭がフレキシブルで謙虚な人が多いような気が致します。私のビリヤードの記事を見て、町田プロが”象牙球からプラスチック球に移り行く時代”のプロセスを通してご自身の道程を追想して体験談を送って下さいました。
貴重なお話しは日本ビリヤードの変遷でもあり歴史でもあります。町田氏のビリヤードへの思い、努力、そして、仕事に対するプライドが優しく心に伝わります。
町田プロの許可を得て此処に書き記しますが、此処に書きました記事の転載は固くお断り申し上げます。

                      【象牙球からプラスチック球に移り行く時代】
象牙球とプラスチック球の対比

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【違いの分析】
象牙球とプラスチック球の違いの一番は、感覚的に五感の聴、「音の違い」でしょう。
象牙球同士のぶつかる音と、プラスチック球のぶつかる球の音は聞こえ方に格段の違いを感じます。
 ◆ A)象牙球
象牙球は、はっきりとクリアな澄んだ音がします。それに比べればプラスチック球の音は少し濁ったような鈍い音がします。その音の違いは、私があくまで個人的な感想で言いますと、まるで”備長炭の音色”と”普通の黒炭”を叩いた音の違いに近いのではないかと感じるほどです。

 ◆ B)プラスチック球
現在のプラスチック球は出た当時よりも改善され、より品質が向上されてはいますが、球同士の衝突音はまだまだ象牙球には程遠いものがあります。 その部分も含めて今後はメーカー側には研究開発を進めて行ってほしいと個人的には望んでいます。   (化学、先端技術の目覚ましい進歩の中で、無限の可能性があるならば・・)

大正、昭和の木造の建物が多かった時代には、広い撞球場の室内で象牙球同士の当たる音がとても良く鳴り響いて外にも聞こえてきたりしました。仕事を終えて帰路につく人や、道を歩いている人などに象牙球の何ともいえない澄んだ音が聞こえ伝わり、その楽しそうな球の音色に誘われるかの如く、ついフラフラと撞球場に足を運んでしまう、そんな話を昔からビリヤードを嗜んで来られたご年配の方からよく聞かされました。
                ( 私hime-teruが、思いますに、もしかして「水琴窟の音色」の様な風情があったのではと想像致します )
【対比】
象牙球で引き球を撞いてみるとプラスチック球と比べて手応えが重くなかなか引けません。相当しっかり撞いてキューを効かせないと手球がちゃんと戻らない感じがします。逆に押し球を撞くと手球がすぐに前に出てよく押せます。

プラスチック球は象牙の球と比べて、球同士が当ると分離角度的にはよく割れるような動きをします。プラスチック球の方がよく弾ける感じです。

象牙球同士では、それほど割れる感じがしません。ですので、3Cゲームなどでは薄い球に関しては少し楽な感じがします。 その代わり、先球に厚く当てて弾かせるような裏回しのような形になると、かなりしっかり撞かないと自分のイメージの角度が出せないような難しさがあります。
 
象牙球でジャンプショットをしようとするとプラスチック球と比べて、なかなか手球が飛びません。しかし、一方で私のイメージではプラスチック球に比べて象牙球の方が汚れにくくコンディションが変ってもボールの動き自体には変化が少ない印象があります。

アーティスティックのような極限的なフルショットで象牙球に回転をつけると、引き球の際には手球が先球の正面に当ると手球が一旦止まり、瞬間的に一拍時間を置いてから段々とスピードを上げながら戻って来ます。

厚みをずらすと象牙球はプラスチック球と比べて放物線のカーブの動きがゆったりとした感じになるイメージがあります。

押し球でダブルクッションを撞くと手球が先球に当り、クッションに入った後で、プラスチック球と比べて手前にカーブがゆったりと大きく膨らんでから前に押して進んで行くような動きをします。

マッセで回転を急激に与えた場合、手球の動きはプラスチック球と比べて、やはりカーブの出方がゆっくりとした味のある動きに見えます。

このような性質の違いは、現状ではプラスチック球の方が微妙に硬くて弾きやすく、比べて象牙球の方は少々柔かめで弾き難い、ボール同士が当ると衝撃が僅かに吸収されるようなイメージがある為です。

象牙球に少々重心のずれがあったり、狂いがあったりするとマッセで強く回転を効かせた場合、 「 ゴォ~! 」 あるいは「ブ~ン」 「ゴロゴロゴロ・・・」 と、いったようなある種のエンジンのような音が響いて、動いて行きます。

『要点』
他のビリヤード競技が、全てプラスチック球に変更されてもアーティスティックの世界選手権だけは1996年まで象牙球が使用されていたのは、以上の様なボールの性質、動きなどに「アーティスティックプレイ」に関しては、特に如実の違いがあるということが大きな理由になります。

従いまして、アーティスティックの試合ではプラスチック球よりも象牙球の方が遥かに実力の差が出ます。根本的なパワー・キュー切れなどのプレイが象牙球の方が強く要求されるからです。逆にプラスチック球でのアーティスティックプレイではその差が縮んでしまう事になります。

象牙球からプラスチック球に変更になった時にそれ以降、アーティスティックの大会に出るのを辞める宣言をしてしまった人もいた程です。

象牙球からプラスチック球に全ての競技が変更になった後でも、暫くはエキジビションの曲球の時だけは持参の象牙球を持ち出して披露していたプレイヤーは少なくありませんでしたが、最近はそれも無くなって、象牙球の動きの代用にプラスチック球に良く滑るワックスを塗りたくって、エキジビションの曲球は行なわれています。

 続く
by hime-teru | 2012-02-09 00:19 | 撞球 | Trackback | Comments(0)

〓撞球の今昔〓

                              ★… 【 撞球の補足 】 …★
【協会】の発足と【競技の誕生】に触れておきましょう。
(町田氏からの補足を取り入れながらの更新です)
 『協会』の発足
1926年4月8日に日本撞球協会が設立。
1951年に日本ビリヤード協会に変更。
1964年には世界ビリヤード連盟にようやく加盟。
1990年2月に文部省の法人の認可を得て協会が社団法人となりました。
(協会の法人化の為に選手の方達は半強制的に寄付金が課せられたとのこと )

 『競技の誕生』
国際的に公式競技として一番古いゲームは「イングリッシュビリヤード」和名では「英国式ポケット」 といいます。(スヌーカーテーブルに白白赤の3個の球を使用し、ポケットに先球や手球を入れたり、或いはキャロムで得点したりの組み合わせで行ないます)
現在でもインドネシアなどの東南アジアの一部の地域で親しまれ、日本では、『霞会館、東京倶楽部』などの一部の社交クラブ等で昔から引き継がれて親しまれています。

 「イングリッシュビリヤード」が全てのビリヤードゲームの根本(大元)になるゲームです。
  ここからスヌーカー、キャロム、プール(ポケット)などのゲームへと派生し枝分かれしていきます。
 ①先球をポケットに入れるだけにしたのがスヌーカー
 ②手球を先球2個に当てるだけにして、ポケットの穴を塞いでフランスで発達して行ったのがキャロム(フレンチビリヤード)。 
 ③ゲームをなるべく簡単にして、テーブルを小型にしてポケットの穴を広くして球が入り易くし、ボールに番号を付け、ブランズウィックが素人一般大衆に親しまれやすいように開発したのが、アメリカンポケット(プール)ということになります。

【世界タイトルに挑戦した初の女性】 桂マサ子さん
男性の社会であったビリヤード競技に新風を吹き込んだ女性がいたことを此処に記しておきます。
『桂マサ子(1913年 - 1995年)さん』
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日本出身でアメリカで活躍した女性のビリヤード選手です。師匠である日本チャンピオンの松山金嶺の指導の下、日本でただ一人の女性プロビリヤードプレーヤーだった女性です。貴重な写真は友人からの提供です。
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「弱き者よ汝の名は女なり」と言う言葉を払拭し、女性に新たな境地を開いた人でもあります。
桂女史により現代では女性プロも沢山輩出され活躍されています。

【象牙】についても触れておきましょう。
象牙はゾウの上顎門歯(切歯)が根を生ずることなく一生長く伸び続け牙(きば)になったもの草の根を掘ったり、木の皮をはぐのに使用するため磨滅し、アフリカ象の雄の象牙がもっとも大きく、長さ3.58メートルにも達したものが過去に記録がある。(重さは長さ3.1メートル太さ65センチの牙で、105.8キロに達した報告がある)
『特徴』
歯の主体である堅い組織が他の動物に比べて発達している部分は象牙質と呼び、もろいエナメル質は、生え初めの象牙の先端を覆うだけである。象牙の外側はしばしば暗色であるが、内部は白またはクリーム色で美しい木目があり、きめが細かいため入念な細工に適し、縞(しま)目の変化や半透明の乳白の色調が美しい。古来から、牙彫(げちよう)工芸品の材料として洋の東西を問わず珍重されました。

歴史の中でビリヤードのボールは、石や木や粘土で製作されましたが、象牙が使用されるようになった1800年代中頃には象牙需要の高まり、驚くほど数多くの象が殺されましたそうです。(1頭の象牙で8個のビリヤードボールが限界だったようです)
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WWF(世界野生生物基金)の調査報告では、とくに密猟が急増した1983年、年間において400~500頭のゾウが犠牲になったと告げている。このような状態では、種の保存すら危ぶまれるため、日本においても1985年(昭和60)ワシントン条約に基づく輸入貿易管理令が改正された。

ワシントン条約(CITES)「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」は、野生動植物の国際取引の規制を、輸出国と輸入国とが協力して実施することにより、採取・捕獲を抑制して絶滅のおそれのある野生動植物の保護をはかることを目的とする。

【プラスチックボールの生い立ち】
プラスチック球が出てきた当初は俗的に ”練り球”と呼ばれていました。スーパーアラミスがまだ日本にきていない時代のことです。
プラスチック球は、そもそも象牙と同じ硬度と比重ということが条件で造られていますが、現在製造されている製品は、象牙にほぼ近いとはいえ、完全に同じとは言い難く、撞いてみると、まだまだ、だいぶ性質に違いがあることが認められます。

 『ビリヤード産業』
ニューヨークのビリヤードボールのメーカー(フェラン・アンド・コレンダー )が象牙に代わるボールの素材を募る。懸賞金は1万ドルだったそうです。
1869年、アメリカの発明家 ジョン・ウェスリー・ハイアットが ニトロセルロースを使用することに成功。(懸賞金が授与されたかどうかは不明)
1870年には、セルロイドとして商標登録されましたが、セルロイドは燃えやすい性質がありベークライト、クリスタレートや、他のプラスチック化合物等、切磋琢磨しながら改良を重ね、現在ではヒビや衝撃に強いプラスチック素材を用いて製造の過程を辿る。アクリル樹脂はアメリカのエレファント・ボールズ社、フレンジー・スポーツ社、香港のヴィグマ社などが製造しています
ベルギーの サラク社(Saluc S.A.)は、現在、 スーパーアラミス・ブランズウィック・センテニアルのブランド名で、フェノール樹脂製のボールを製造しています。

現在では全て、UMBなどの公式球にはスーパーアラミスが使用されています。
① キャロム公式球…直径61,5mm、重さ205~210g、
② ポケット…直径57,1mm(誤差の範囲は0,127mmまで) 重さは165~175g。
③ スヌーカー…直径5、25mm、誤差の範囲は0、05mmまで(実際5、24mm)
重量に詳細の基準は定められていないが、セット中のボールは全て統一(3グラム程度の許容誤差)

④ ロシアン・ビリヤード(ロシアン・ピラミッド) …直径68mmの大きなボールを使用。

◆プラスチック球のクリーニング方法
白球もカラーボールも一緒ですが、プラスチック球が世に出てきた当時は、よく金属磨きに使用される溶液をスポンジか布に付けて拭いていた事も多かったのですが、この方法はボールに磨耗がおき、すぐに球が小さくなってきますので、近年では市販されているワックス系のクリーニング液などでボールを拭くのが一般的です。(特にキャロムゲームの場合は、コンディションの調整に、かなり気を遣いますので様々な方法があります)

①ビリヤードクロス(羅紗・ラシャ)が新らしく、球がよく滑るような状態では、ボールは水拭きしてワックスを落として乾いた布で拭きます。
②使い込んであまり滑らなくなったラシャの場合は、球にワックスをある程度残した状態で拭いておく。羅紗のの状態応じて微妙に調整する必要が出てきます。 
③最近は使い込んだラシャに直接ワックスを水で薄めるなどして霧吹きなどで吹きかけたり、掃除の時に濡れた布にワックスを染み込ませ、ラシャを水拭きする等の方法があります。当然ボールもそれに合わせる必要がありますが、なかなか調整が専門的かつ微妙なもので、素人には難しいかもしれません。

                            〓 【 日本でのゲームの始まり 】 〓
 四ッ球
昭和26年-日本撞球協会(NDK)により、第1回「全日本四ッ球選手権大会」が開催。第1回優勝者は 厨川博孝。(当時は2・3・5点制の500点ゲームでした)
昭和29年の第2回より、1000点ゲームとなり、昭和43年の第6回大会まで〔象牙球〕が使用されました。
昭和44年‐第7回大会よりプラスチック球の使用が始まる。
昭和45年‐サーブの形が変更になる(2・3・5点制から1点制へと数え方が変更)
昭和47年‐第10回大会より、それまでの65,5mm球(大玉)から61,5mm球に変更されました。
(この大会から漸く四ッ球の公式球がキャロム世界公式標準サイズの大きさと同じになる)
 同時期に公式球に合わせる為、多くのビリヤード場で中台のクッションを低くする工事を彼方此方で余儀なくされました。
昭和54年‐ 第16回より、制限枠が広がりフリーゲームと同じくダイヤモンド方式となりました。

 町田家の大会記録の抜粋 … 町田氏より。
昭和46年‐三越撞球場で開催された時の第9回大会で優勝した桂典子。
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400点ゲーム、10ゲームの内、初キュー撞き切りが9回、という途方もない記録が最高でしょう。
( その大会で町田氏の お父上町田善司氏)が関東代表で第5位に入賞されています )

昭和53年‐第15回大会では お兄様町田吉久氏)優勝。
(当時、第1ゲームで300点を約10分というスピードで撞き切り、周りから天才と謳われていました)
昭和58年 第20回大会では町田プロ初優勝

全日本四ッ球選手権」はプロ・アマチュアを含めた”オープン戦”として開催されておりましたが、単独の四ッ球選手権では町田氏の優勝大会が最後となり廃止になりました。

ちなみに町田プロの四ッ球の全日本選手権での戦績は5年間トータルで300点ゲームで1キュー平均のアベレージが平均200点を超えて、出場選手の中では間違いなくトップアベレージです

現在の「全日本四ッ球選手権」はオープンでは無く正式にはアマチュア選手権になっています。
by hime-teru | 2012-02-09 00:11 | 撞球 | Trackback | Comments(0)

〓撞球の今昔〓

                              ★… 【 象牙球 & プラスチック球 】 …★
【はじめに】
友人を介して、親しくさせて頂いている現役プロの町田様に象牙球からプラスチック球に移行した諸事情を伺いました。ストレート球を撞くような詳細極まるお返事を頂きました。多忙なところ貴重なお時間を割いて頂きました事に心より感謝申し上げます。また、時々、私のブログを見てくださっているとのことも大変嬉しく思います。

日本のプロ第一人者の町田正プロは、人生に命を懸けてビリヤードスポーツに貢献してこられ、今なお、世界に挑戦なさっていらっしゃる現役プロです。
数々の世界大会に出場され、メキシコ大会で銀メダル、「全日本四ッ球選手権大会」で優勝、1986年からは全日本アーティスティック選手権大会6連覇を達成、。日本で唯一、キャロムビリヤード公式全種目の永久A級プロの資格を持ち、本の出版も数々と、輝かしい経歴をお持ちです。戦後の良き全盛時代に現皇族、元皇族、元華族様方が集われる「霞会館」に指導に行かれた経歴もおありです。幼少の頃よりの体験を通してのお話しは確かな重みがあり貴重な歴史で御座います。教えて頂きました『ビリヤード球』の今昔、競技の諸々の事を皆様に知って頂きたく、ここに補足記述をさせて頂きました。(むろん、町田プロの了解を得たうえでの更新です)

3年ほど前に写真撮影のことで友人と町田プロのお店にお邪魔をさせて頂いた時、大正から昭和初期、戦後にかけての貴重な文化資料を見せて頂いたことが事が御座います。資料はまさに日本のビリヤードの歴史そのもので、当時の国際交流文化を彷彿される写真やカタログの数々、ビリヤードの全盛時代を改めて感慨深く拝見させて頂きました。ご自身は、「この資料を後世に大義をもって伝えて行きたい」と話されてました。
人物紹介はこのあたりにて、補足本題に入ります。

◆「田母沢の御用邸のビリヤード台」の写真をご覧になって・・・、町田氏は、″当時の最高級の四ッ球台(中台)ですね、おそらくメーカーもしくは組合から献上されたものかもしれません″当時の中台は昭和の初期ぐらいまでは「普通台」と呼ばれていました。とのコメントを頂きました事をここに記しておきます。

                        ★… ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞★∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ …★

 ☆ 【象牙球】について・・・・。 
1969年の世界3C(スリークッション)選手権より象牙球からプラスチック球に変わりました。
日本では1969年の(昭和43年)第6回「全日本四ッ球選手権大会」「全日本スリークッション選手権」では、昭和47年の第29回大会までが”象牙球”使用の大会だったようで御座います。(以下、町田氏のお言葉を引用しながら明記していきます

象牙球は正確に言いますと、新品のボールはあまり真球では作られていません。当時はビリヤードの球を調整したりする“球クリ屋さん”が結構多く存在していました。球クリの職人が専用ゲージで調整するときにボールの性質や象牙の目の方向を読みながら手作業で少しずつボールの表面を擦って行くのですが、仕上がった後に象牙は色々な条件で膨らんだり変形をして行くので、その後々の変化を想定しながら球クリの仕上げをします。よって、出来上がった時はあまり真球ではないのです。

故にしっかりと真球に仕上げてしまいますと、後々、使用して行く内に速い時期の段階でボールに段々と狂いが余計に生じて真っ直ぐ走らなくなってしまうのです。調整を施したボールでも、長く使用して行く内に狂いはどんどん大きくなってしまいますので、球クリ屋さんに出して擦って貰わなくてはいけません。
(徐々にボールの直径は減ってしまうからです) ↓大切保存されていた象牙球です。
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 ☆ 『ボールの公式的サイズ』
の四ッ球の大玉は(65,5mm)新品の象牙球は(約66mm)でした。使用して行く内に、玉クリ屋さんに出して、段々と標準の大きさになり、通り越して64mm位になってしまったら、約62mm の大きさに球をクリ、スリークッションに使用する。最後はかなり小さくなり、やがて小さな青いチョーク色のヒビだらけになり、上がり球になってしまいます。

  『赤球に関して』
あまり見た目には綺麗ではない象牙の素材の球を選び、赤色2号などの染料を酢で溶いて、その溶液が入った鍋などにボールを漬けて染めるのだそうです。仕上がった赤球は直接撞いてしまうと、撞いた跡が取れずに残ってしまうので、うっかり赤球を撞いてしまうと店の人に大目玉で叱られてしまいます。
この習慣が残っているのでしょう!カラーボールを撞くのは現在でもエチケットとしてタブー視されている傾向があるようです。 
また、象牙の赤球は雑巾や水で濡れた布で拭くと染料がモロに剥がれてしまいますので、それも絶対にタブーです。乾いたタオルで拭くしかクリーニングの方法はありません。汚くなってしまった赤球はまた染め直します。
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  【白球】
通常は濡れた水で拭き、その後で乾いた布で拭きます。汚れが目立ち、なかなかチョークの青さが取れない状態では、沢山の量の 「 塩 」 に水を加え、やや白くドロドロになったところに象牙球を入れて素手でやや強めに擦るように、よく塩揉みをします。その後で水洗いし乾いた布で乾拭きが専門的なやり方です。
  『保存と管理』
象牙球は普段、保存の際の管理にも注意が必要です。あまり温度差の大きな場所に置いておくのは望ましくはありません。皮のケースに綿か脱脂綿などを詰めて、その中に隙間なく入れて置くのが良いでしょう。冬期には、球をなるべく冷やさないように気をつけた方がよいそうです。

象牙球は、インド象よりアフリカ象の方が白色度が高くて美しく手球に向いている?とか。

現在では、新(サラ)の象牙球は相場が1個市価4~5万円ほどで、なかなか手に入り難いと思います。
ワシントン条約(野生動植物の保護を目的とした条約で、日本をはじめ世界の約170カ国が加盟しています)によって象牙の輸出入は禁止され、公式的にビリヤードで象牙球が使用されることは皆無になりました。

◇【 世界アーティスティック選手権 】と【 象牙球 】 について・・・
1937年(昭和12年)に第1回大会、世界ビリヤード連盟(UMB)主催がパリで開催。
当時はアーティスティックではなく「世界ビリヤードコンテスト選手権」という名称でした。優勝は A・Tiedtke (ドイツ)
1966年第5回マドリッド大会より「世界アーティスティックビリヤード選手権」に改名。
1996年第24回フランスのピティビィェ大会までは、“象牙球”を、使用しておりました。その後の2002年、第25回フランス、ファセツムニェル大会から“プラスチック球”を使用することになり、日本でも世界選手権の規定に伴い、同時期に象牙からプラスチック球に余儀なく変更されました。
※因みに、1986年のメキシコ、アカプルコ、会場コカパバーナホテルで開催された大会で町田選手は銀メダルを獲得。

ポケットにも 「世界アーティスティックプール選手権」というのがあるとのこと。
1991年に発足、以前は、「アーティスティック」 とは言わず、一般的には 「 トリックショット 」大会の時は「 ファンシーショット 」 と呼ばれていたようです。
※従いまして、ポケットの 「アーティスティック」 はキャロムから引用した後付の名称とのこと。全般的には英語名で 「ファンタジーショット」 という呼び方もあります。

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 ★ 【 プラスチック球 】 について・・・・。 
1969年の世界3C選手権から象牙球からプラスチック球に変更になってからは世界選手権、全日本選手権などの1番大きな公式大会など、ビリヤードに付随する諸々の器具やルール等、合わせた形に全んど右に習えで、世間一般のビリヤード場にも普及し今日に至ります。
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プラスチック球の素材の正確な名称は「フェノール樹脂」と言います。
フェノール樹脂の発明の経緯については戦争が関係している!とか、伝導絶縁体の開発の説もあるが、実はビリヤードのボールを人工的に作るために発明されたという説が有力であるという話があるそうです。
 
フェノール樹脂(phenol-formaldehyde、PF)とは?最も古い(1907年発見)プラスチックで、今日でも熱硬化性樹脂の代表的なものとして広く利用されています。フェノール類とホルマリン(ホルムアルデヒドの37%水溶液)と反応させてできています。

 〓『性質』
 ① 硬くて機械的強度が大きい。
 ② 各種溶剤や化学薬品に対して安定である。
 ③ 寸法安定性、耐熱性、電気絶縁性に優れている。
 (アルカリ性に弱い。茶托や鍋ぶたのつまみ、フライパンの取手がそうです)

 【 プラスチック球の経緯 】
プラスチック球は当初は配色が象牙球と一緒で、手球は白と白で、小さな黒い点のポッチか、もしくは直径4~5mm程の小さなドーナツリング状の黒い印が片方の球に2ヵ所付いていました。(中にはリングの印が赤もあったり)手球の区別は日本では、ポッチの付いている方を「黒球」ブラックボール、付いていない方を「白球」ホワイトボールと言っていました。

当時はサーブを撞く人は手球を選べるというルールがありましたので、手球の回転が解かり易いというような理由でサーブを撞く人は黒球を選んでいたことが多かったようです。

1986年、にワールドカップ連合(BWA)が発足し、3Cワールドカップ大会シリーズ戦の開催に伴い、テレビ放映に向けて、視聴者が解かり易いようにとの配慮で、それまでの「白球、黒球」から「白球、黄色球」に手球が変更されました。(この時にはボールには未だ模様が付いておりませんでした)
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当時の黄色球はベルギーのSaluc社がスーパーアラミスの黄色球の手球を開発しましたが、未だ品質的には完成度が低く、撞いている内にボールにチョークの粉が付きやすく、汚れやすく、細かい傷が多く付きやすい、また、ボールの弾力が少々他のボールと違って微妙に弾きが大きいなど不評判で、その後、経年共に品質が改良され、ほぼ他のボールとの品質差が少なくなって今の球の誕生です。
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 ☆ 【 ドットボールの経緯 】
ドットボールが試合に使用されはじめたのは、私の記憶では2002年頃だったと思います。スリークッションワールドカップからです(主に使用球)
※理由は、やはりテレビ、観客等、見ている人達に球の回転が解かり、動き自体も解かり易いように、という配慮でしょう。
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その後、程なくしてポケットにも使用され始めました。キャロムでは世界大会等でアーティスティック、3Cに使用されていますが、世界連盟では、他の競技では公式試合には使用しておりません。

実のところ、ドットボールは35年ぐらい前から存在します。ヨーロッパのビリヤードショップなどで販売してました。しかし、これは特殊球に属するもので、使用の用途は主に曲球エキジビション等のアトラクションに使用したり、ボールの性質や回転、動きなどを学習する為などに使用されていたのです。

その頃の赤球に関するボールは、ヨーロッパで赤茶系で暗くて濃いアズキ色のようなボールが存在し、ヨーロッパでは「 レッドボール 」 と一般的に呼んでおり、ドットボールのドットの色も同色でした。
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アズキ色の「レッドボール」は世界選手権の公式球としてもよく昔は使用されていましたが、日本ではあまり受け入れられず、国内では公式戦で使用されることはありませんでした。

現在のドットボールは、その頃の曲球用のボールを参考に作られたもので、ほぼ同じ模様になっています。

試合に使用され始めた当時のドットボールは、未だ品質的に未完成の部分があり、それまで使用されてきたボールとは弾力など、性質に若干の違いが感じられました。その後少しずつ品質が改良され、だいぶ良くはなりましたが、まだまだ未完成の部分あり、ヨーロッパではフリーゲーム、カードル、バンドゲームなどの、ストレートゲームでは、未だ公式試合ではドットボールは使用されておりません。

現在のドットボールでも微妙な性質の違いが認められます。
卸したてのニューボールならば、まだ良いのですが、ある程度使用したボールは下地の部分とドットの色の部分の磨耗される減り具合に差が生じるので、ボールの走りもスローなスピードのボールの最後の動きに微妙な拠れや揺らぎがある。ストレートゲームの繊細なプレイではそれが大きく影響してしまいます。

『日本ではカードルとバンドゲームでもドットボールが使用されておりますが、ヨーロッパの選手のような非常に高いアベレージを出せる選手がいないので、技術的に見て国内では昔のボールを改めて使用するまでもないであろう、という見解のようです』

私個人的には、現在のドットボールでの国内の公式戦ストレートゲームでの使用は正直に言いまして大変に不満が大きいです。、町田氏の呟き。
(試合の時には、それを考えても仕方が無いので我慢して気持ちを割り切って、いつもプレイをしております)とのこと。

【ヨーロッパの試合事情】
 ◎ ヨーロッパの公式戦では、フリーゲーム、カードルは無地の黄色球はおろか、今だに白白赤の昔のスタイルのボールを使用しております。

 ◎ フリーゲーム、カードルは一番繊細なゲームなので、例えドットが付いていない黄色球は現在でも完全では無いとの解釈をしているようです。

 ◎ バンドゲームの公式戦に関しては、ドットが付いていない黄色球を現在でも使用しています。

【日本の事情】
 ◎日本には昔のスタイルのボールは一般的に販売されていませんので、以前のボールを購入するにはヨーロッパのメーカーより取り寄せなければなりません。値段的に高くて費用が結構かかり、その上、その都度の手続きや手間が大変面倒なのだそうです。
つまりは、日本の現状では、常にニューボールを使用出来るほど、財政的に余裕が無いのです。 また、公式戦に使用するとなると、プレイヤー自身も改めてボールを購入する必要が出てきます。

 ◎現在、昔のある程度新しいドットではないボールを常駐しているビリヤード場は少なく、また協会、プロ連盟にもストックがありません。という訳で、諸々の理由で全体を考えると、現実的にストレートゲームでの使用球は、問題や難しい点が多いのが現状です。

 ◎唯一、国内の四ッ球の公式選手権だけは、ドット無しのボールで行なわれています。四ッ球を設置している店だけに関していえば、今までのストックしているボールもまだ有り、現在販売している従来の四ッ球のセットもドット無しのボールで入手できますので、現在でもドット無しのボールでも試合が成り立つという訳です。
しかし、それも、どこまで続けられるのは解かりません。

 ◎ちなみに、日本では 「 ドットボール 」 と呼ばれておりますが、海外では、「 ドットボール 」 と言っても通じない場合があります。製品の正式名称は、「 スーパーアラミストーナメント ”Spotted Ball” 」 と言います。

【余談】
他のスポーツに関しても、ボールに模様が付いている競技が多いのには、似たような理由が有ると思われます。
※例えば・・・サッカー、バスケットなどは昔から模様が付いており、バレーボールは昔は真っ白でしたが近年では割合に派手な模様が付いています。
by hime-teru | 2012-01-29 22:53 | 撞球 | Trackback | Comments(0)

【 御玉突所 】 ビリヤード

                                      ★…【 御玉突所 】 ビリヤード …★
                                    2011.12.12 日光田母沢ご用邸にて
【日光田母沢ご用邸】
田母沢ご用邸は明治32年(1899)に大正天皇(当時 皇太子)のご静養地として造営されました。その後、小規模な増改築を経て大正天皇のご即位後、大正7年(1918)から大規模な増改築が行われ大正10年(1921)に現在の姿となりました。昭和22年に廃止されるまでの間、大正天皇をはじめ、三代にわたる天皇・皇太子がご利用になりました。戦後、博物館や宿泊施設、研修施設として使用された後、栃木県により3年の歳月をかけ、修復・整備され、平成12年(2000)に記念公園として蘇りました。平成15年(2003)に貴重な建造物として「国の重要文化財」に指定され、平成19年(2007)には「日本の歴史公園100選」に選定されました。
謁見所 】………天皇陛下が公式の来客との面会に使用された部屋です。
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御玉突所
赤坂仮皇居の初期に御玉突所があり、明治の初めから皇室では、諸外国との交遊のために、ビリヤードを嗜んでおられました。四ツ球と呼ばれる競技台で、ポケットがありません。手洗いを除く、台と照明器具等が復原されました。『当時の最高級の 四ッ球台(中台)です。当時の中台は昭和の初期ぐらいまでは「普通台」と 呼ばれていました』
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写真は大正天皇が韓国皇太子の日本滞在中ビリヤードを楽しまれた撞球台です。重厚な撞球台です。菊のご紋章いりです。
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キューも揃っています。
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〓現在は三笠宮寛仁親王殿下がスポーツ振興活動を続けておられ(社)日本ビリヤード協会の総裁 でいらっしゃるとお聞きしています。
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★☆私の趣味の中に異色の趣味と申しましょうか?「ビリヤード」が御座います。通いつめているわけではありませんが、ストレス解消に出かけます。キッカケは?1冊の小説雑誌。私が尊敬している女流作家が着物を着て撞球をしている写真を見て心が動いたからです。ビリヤードプレーは、台に穴のあるポケットではなく三玉、四つ球のキャロムです。一人でも楽しめる楽しいゲームですが・・・歳経る年齢からのスタートは中々手強くて難しくて思うようには参りません。毎日のトレーニングが不可欠なスポーツ、生きた球が撞けるようになるまでは数十年?個人差もありますが、長い年月の鍛錬と心身を労して努めなければ上達出来ないスポーツです。
されど、一人コツコツと激しい運動が苦手な私には格好のスポーツと思い、月1~2回ほど都内に出かけています。体の向きやグリップの位置はもとより、撞点の厚さやストロークの力加減、撞きだしのタイミング、綺麗なフォーム、捻り、寄せ玉、マッセ等、大変難しく未だに把握仕切れていません。毎回、一からやり直しと言う状態ですが、吸い寄せられる目に見えない引力!が働いて通い続けています。

◆【日本のビリヤード
日本への渡来は江戸中期に幕府に献上されたといわれている。一般には1850年代にオランダ人によって長崎の出島に持ち込まれたのが最初とされている。その後、1871年(明治4年)、東京に最初のビリヤード場が誕生しました。しかし、当時は華族、陸・海軍の将官、外務省の高官などの貴顕紳士だけの社交的競技でした。
大衆のビリヤードとして流行しのは、大正2、3年頃、山田浩二をはじめ有名選手を輩出した。技術的にも揺籃期の四つ球、三つ球競技からボークライン競技へと移り、選手らの渡米による国際交流も盛んになり、1925年春に有名選手を中心とした日本撞球協会が設立されました。昭和に入ってからは外国選手の来日などによってますます盛んになり、昭和12、13の最盛期には全国のビリヤード場軒数2万軒、台数6万台に上ったようです。37年に松山金嶺(きんれい)がアメリカから帰国、スリークッションの技術を公開し、38年に第1回全日本スリークッション選手権大会が開催されて以来、日本の選手権の主流となっていきました。
しかし、第二次世界大戦による空白はビリヤードの発展を大きく停滞させ、昭和20年の終戦時には東京、大阪などではわずか数軒という状態になる。徐々に復活し再び勢いを盛して、1955年(昭和30年)それまで適用を受けていた風俗営業等取締法から除外されビリヤードはスポーツとして法的に認められるようになりました。74年と84年に小林伸明氏が、スリークッションの世界チャンピオンになりました。平成に入り、バブル破壊と共に閉店を余儀なくされているお店が増えてきました。

競技の種類
◆carom game(四ツ球、フリー、ワンクッション、ボークライン、スリークッション)
四ツ球は赤・白2個ずつのボール。フリー、ワンクッション、ボークライン、スリークッションは、赤1個、白2個の3ツ球で行う。スリークッションは2個の的球に当たる以前に手球(自分が突く球)が3回以上クッションに触れなければ得点にならない。制限をより厳しくしたのが、ボークライン、芸術的技巧をこらしたのがアーティスティック競技なのです。
※三ツ球しかなかったキャロムゲームに白玉をもう一つ加えたキャロム(四ツ球)が考案されたのもアメリカです。

◆pocket game(ローテーション、ナインボール)
アメリカ式とイギリス式がある。アメリカ式はプールともよばれ、白ボール(手球)1個と1~15までの番号をつけたボールで行うローテーションゲーム、エイトボール、ナインボール、14―1ラック(フォーティーン―ワンラック)などがある。イギリス式はスヌーカーで、最近、ヨーロッパ、カナダ、東南アジアなどでも盛んに行われるようになった。リンカーン大統領もナインボールが大好きだったようです。また、イギリスでは、番号が無いポケット(スヌーカーゲーム)盛んになり、現在でもその周辺の放送電波の届く地域では日本のプロ野球並みにテレビ放送があるらしいです。〔電子辞書参照〕

◆【アーティスティック(曲球)という競技
アーティスティックとは芸術の。芸術的技巧。趣のある。優雅なと言う意味がある。アーティスティック・ビリヤードは、まさに技の美しさを競う競技です。
華麗なプレイヤーの姿を数枚アップします。世界大会に出場されている選手の方々です※ 
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『なお、 写真はアーティスティック日本代表戦のカットを記録続けている友人の許可を頂いて拝借致しました。世界選手権大会にも出場された方々です。Y様、ありがとう御座いました。』

私は始めてプロの方々のアーティスティック競技を拝見した時の驚きは今でも鮮明です。野球やサッカーのようなチームで燃えるような姿ではありませんし、サポータも賑やかに騒ぐ人はいません。選手の方々は、小さな球一点に神経を集中して、しなやかにキューを撞く。球が軽業師のように羅紗の台の上をスピンしながらカーブしたり、飛んだり戻ったりと正確に的玉にあたり緊張が緩む。タップ(撞点)がコンマ1㍉ずれれば、正確なコースを外してしまう。観客は固唾を呑んで見守るのです。むろん成功すれば拍手ですが、鳴り物など一切ありません。華麗なゲームです。
【競技内容】
キャロム・テーブルで決まった位置に2個の的球と1個の手球を置き、マッセや「切り押し」「切り引き」他の競技よりも手球に鋭い回転を賭けるショットを多く用いて全ての的球に手球を当てるのです。配置によって難易度が変わり、その難易度によって5-10点の得点が与えられる。日本ビリヤード協会(NBA)のキャロムビリヤード競技規定によると、一つの配置を規定条件と呼び、複数の規定で得た合計得点によって勝敗が判定される。プレイヤーは3回連続した試技が許され、一度成功するとその規定の得点が与えられる。下記の図はほんの一部、私が観戦したときは100種目で競っておられました。
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戦いの後の(玉台)の上は星座の如く競技の余韻が残ります。↑

このような妙技を芸術として鑑賞出来る環境が日本に無いことは非常に残念に思います。

【雑感】
子育てに追われていた頃の私はビリヤードの事は知識ゼロ。映画ハスラーで始めてその存在を知った時はまだまだ世間知らずの?十代、遊び人が高じる夜の遊び、今で言う「カジノ」ばくちという認識でした。
それが【1冊の小説雑誌】で私が尊敬している女流作家が着物を着て撞球をしている写真を見たからです。目から鱗です。何故だかそのスマートさに心が高鳴る。あこがれと願望が、ある日突然、機会を得る。友人に無理を言って某撞球場に連れて行って貰う。興味津図、好奇心に誘われて通うことになりました。
それは何時であったか?お茶会の帰りに立ち寄りあこがれの女流作家の如く着物姿で撞球している写真を撮って貰ったのです。(周囲の目線はとても気にはなりましたが)今では私のお気に入りの貴重な写真として大事に机の上に鎮座しています。

このブログには載せることは出来ませんが、ビリヤード音痴の私ですが、何故か恵まれた出会いがあり感謝です。世界チャンピオン小林伸明氏と一緒の記念写真や、USチャンピオンマイク・シーゲル(Mike Sigel)氏とのツーショット写真もあるのです。
★マイク・シーゲル氏は、映画 ジェームズ・コバーンの新ハスラー - オープニングでトリックショットを披露した人らしい。
by hime-teru | 2012-01-20 21:21 | 撞球 | Trackback | Comments(2)