ブログトップ | ログイン

源氏物語と陰陽師

                    ★… 【 源氏物語と陰陽師 】 …★
                       2012.11.28京都にて
紫式部の生きる世と物語の光源氏の生きる世は、陰陽師が駆け巡る時代ミステリアスで不可解な小説でもあります。
【陰陽師】  
平安時代、安部晴明は陰陽師でした。平安時代は闇が闇として残っていた時代です。人々の何割かは妖しの物の怪の存在を確実に信じていた時代でした。遠境の森や山の奥ではなく、人も鬼ももののけも同じ都の暗がりの中に、時には同じ屋根の下に息をひそめて一緒に棲んでいたのがこの時代、源氏物語の中でも代表される六条御息所の物の怪が葵の上を苦しめます。他、数え切れないほど・・・。
【安倍晴明御霊神】
安倍晴明公は幼い頃から非常に賢明な方で、特に天文暦学の道を深く極め、神道を思いのままに操る霊術を身につけられておられた。天文陰陽博士として活躍し、朱雀帝から村上、冷泉、円融、花山、一条、の六代の天皇の側近として仕えられ、数々の功績をたてられます。村上帝に仕えられておられた時には、進んで唐へ渡り、城刑山にて伯道仙人の神伝を受け継がれます。帰国後、これを元に日本独特の陰陽道を確立。 朝廷の政治、日本人のさまざまな生活の規範を決められました。今日、私達の日常生活の基準となる年中行事や、暦術、占法は皆この時に創られたのです。
源氏物語と陰陽師_e0039703_15402938.jpg

晴明公は天体を移り行く星や雲の動きを観察して宮殿での異変の予知、遠方での吉凶を言い当てられ、朝廷を始め多くの人々の信望を寄せられたとされています。一条帝に仕えた寛弘2年(西暦1005年)9月 26日に85歳で亡くなっています。
源氏物語と陰陽師_e0039703_15411593.jpg

晴明御霊神として祀られた後も、我が国の陰陽道の祖として広く世の中の尊敬を集めます。「晴明公にお祈りすれば、不思議な霊の利益を受ける事ができ、様々な災いから身を守り、病気や怪我が治る…」そうした評判が多くの人々に語り継がれています。
源氏物語と陰陽師_e0039703_15473514.jpg

【本殿】
一番奥に晴明公が祀られている。五芒星が随所にあしらわれ独特の雰囲気に包まれています。このあたりの西陣は、応仁の乱はじめ火災には度々遭った地域でもあります。現在の本殿は、明治38年に建てられたものです。
源氏物語と陰陽師_e0039703_154294.jpg

一の鳥居動画.掛っている額に金色に輝く社紋の桔梗印が特徴的です。
(鳥居の額は、通常、神社名やお祀りしている神様の名前をいれることが多いのですが、この鳥居では社紋が入っており、全国的にも非常に珍しいものといわれています)
晴明神社は死後2年の寛弘4年(1007年)に晴明屋敷跡に創建。
源氏物語と陰陽師_e0039703_15415162.jpg

【厄除桃】
陰陽道で桃は魔除、厄除けの果物と言われております。古事記、日本書紀などでも魔物を追い払う様が描かれています。(ご存じの昔話で「桃太郎」で鬼を退治できたのももこれに由来する)
源氏物語と陰陽師_e0039703_15422642.jpg

【一條戻橋】
安倍晴明公とも縁深い一条戻り橋は平成7年に架け替えられ、現在も神社から南100メートルのところの堀川に架かっています。源頼光の四天王の一人で渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所としても有名です。あの世とこの世をつなぐとされた一条戻橋。現在でも「戻る」を嫌って嫁入りやお葬式の列はこの橋を渡らないのが習わしのようです。先代の橋で使われていた欄干の親柱を境内に移し、昔の風情をそのままに「一條戻橋」を再現してあります。
源氏物語と陰陽師_e0039703_15425464.jpg

【晴明井】
本殿の北寄りに晴明公が念力により霊水が湧出たとも言われる井戸、晴明井です。
(病気平癒を願う人々が現在でも遠方から多数いらっしゃるそうです)水の湧きでるところに注目すると、その歳の恵方を向いており吉祥の水が得られます。恵方は毎年変わり立春の日にその向きを変えます。
源氏物語と陰陽師_e0039703_1543940.jpg

【御神木】
樹齢推定300年。楠はかつて虫除けの樟脳の原料としていました。
源氏物語と陰陽師_e0039703_15433619.jpg

お願い事の絵馬
源氏物語と陰陽師_e0039703_15442661.jpg

【参考までに】
安倍晴明の時代
10世紀には陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出た。忠行・保憲は晴明に天文道、保憲の子光栄に暦道を伝え、平安末期から中世の陰陽道は天文道・暦道を完全に取り込むとともに文道の安倍氏と暦道の賀茂氏が二大宗家として独占的に支配するようになった。
源氏物語と陰陽師_e0039703_15461712.jpg


明治維新後の1872年(明治5年)に至り、新政府は陰陽道を迷信として廃止させた。

現代は土御門家の開いた天社土御門神道と、高知県香美郡物部村(現在の同県香美市)に伝わる『いざなぎ流』を除けば、暦などに名残をとどめるのみであるが、神道や新宗教などに取り入れられた陰陽道の影響は宗教として存続している。

◆【陰陽師の仕事】
陰陽寮が属している中務省は天皇とその政に関する仕事を受け持つところ。陰陽寮の部門としての陰陽師の仕事は『陰陽五行』の思想を用いて災害などの有無を占ったり土地の吉凶を判断すること。

奈良から平安にかけて二回遷都が行なわれましたが、土地を選び吉凶を判断するのも陰陽師の仕事のひとつでした。

今でいう風水の知識が用いられ、占星術のようなものですが、星ばかりでなく月・大気・風や雲なども観察の対象でした。変化があれば何を意味しているのか、どういう現象が起こるのか?それが天皇や国家にどのような影響を与えるのかといった報告書を中務省に提出します。

陰陽師たちの仕事は公務だけでなく時には朝一番で貴族や官女たちの相談を受けることもありました。陰陽師が夢を凶と判断したら身を清め外出を控える物忌みに入るのです。

女流文学の『更級日記』 『蜻蛉日記』 を見ると、当時の宮廷人が夢解き・夢違えに いかに熱心だったかをうかがい知ることができます。

◆平安中期以降は・・・
律令制そのものの枠も弛んだ為、陰陽師が貴族らを個人的に占うことも。それは基本的に陰陽道に関する知識を持つ官僚のみで、民間人は陰陽道を知る事も学ぶ事も許されませんでした。

◆【陰陽師の身分】
陰陽頭は従五位。天文博士らは七位。平安時代の貴族は五位以上であり貴族でなければ昇殿は許されませんでした。安倍晴明は陰陽頭ではありませんが官位は従四位。身分は固定化されたものではなく力があれば出世する。

◆【陰陽師の出勤】
宮廷の規則にのっとり一般の中級官人と変わりなし。出勤時間は早く大内裏の諸門が開くのは夜が明けてから20分もたたない頃ですから、6月半ばなら朝の4時30分ころ、30分後には仕事開始になります。遠距離の者は暗いうちに家を出て門が開くのを待つのです。
            ◯∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽◯
★近年、出版された内館牧子さんの「十二単を着た悪魔」”異聞”源氏物語を拝読しました。
就活中の内定がことごとく不採用、日雇いの派遣の生活をしていた男の夢を借りて進められています。イベント「源氏物語」の設営を終えた帰途、雷に打たれた一瞬の時間に源氏の世界にトリップして光の当たらない皇妃、弘徽殿女御の陰陽師の職を得て活躍する(物語のあらすじ本があるからですが)侘びしくて、寂しくて、悲しくもあり、やりきれない笑いもありの小説です。
終盤は我に戻る。心身共に物語に入っていけるほど無我夢中になっていたのでしょう。源氏物語の原文版や墨書まで読めるほど入り込み、研究の道を志す。
意表をついて大変面白かったので、歴史に残る陰陽師(安倍晴明)を祀る神社を訪ねて見たくなり今回はコースに入れて訪ねて見ましたのでした。

〓【陰陽師】と【宿曜道】〓 
今風に言えば「占い師」でしょうか。幻術師、拝み屋という言い方も出来ましょう。どれも適確なものではない様な?。陰陽師は星の相を観て人の相を観る。方位も観れば占いもし、呪詛(すそ)によって人を呪い殺すことも出来、幻術を使ったりもする。眼に見えない力、運命とか、霊魂とか、鬼とか、それらに深く通じており、そのようなあやかしを支配する技術を持っていた。

【宿曜道】
平安時代、空海をはじめとする留学僧らにより、密教の一分野として日本へもたらされた占星術の一種。密教占星術、宿曜占星術などともいう。『源氏物語』桐壺にも、主人公・光源氏が誕生した際、宿曜師にその運命を占わせる場面が出てくる。
【陰陽道】
陰陽寮で教えられていた天文道、暦道といったものの一つ。これら道の呼称は大学寮における儒学を教える明経道、律令を教える明法道等と同じ。「おんようどう」「いんようどう」とも。古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として日本で独自の発展を遂げた自然科学と呪術の体系である。
◆【陰陽五行説伝来】
5世紀から6世紀頃、陰陽五行説が仏教や儒教とともに日本に伝わり、陰陽五行説と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易といった自然の察に関わる学問、占術とあわさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられるようになりました。
当初、漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていたが、やがて朝廷に奉仕する必要から俗人が行うことが必要となり、7世紀後半頃から陰陽師があらわれ始めた。
律令制がしかれると、陰陽の技術は中務省の下に設置され陰陽寮へと組織化された。陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせた。
(令では僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられた)

平安以降は、律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて、形式化され宮廷社会での怨霊に対する御霊信仰など陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の生活に影響を与える指針となっていきます。陰陽道は宮廷社会から法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して日本独自の展開を強めていった。日本の陰陽道は、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げていく。密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受ける。
by hime-teru | 2012-12-07 15:48 | 源氏物語花考察(ゆかりの地) | Trackback | Comments(0)